作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第9章、その1)

  本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といいながら、私の理解した言葉に書き換えているので幾分かの誤りは含んでいるはずだ。分からなくなったら必ず本書に戻って読み直さねばならない。
 以下、本文抜粋。

 

P140
 ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考(参考2)において「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」(五・六四)と述べている。


<私的メモ: ウィトゲンシュタイン論理哲学論考(参考2)から独我論実在論の解説を引用する。なお、この書(参考2)の訳者は野矢茂樹氏ご本人だ。

 独我論:なんらかの意味で自分と他者とが対比されて捉えられる場面において、他者の存在を否定し、ただ自分だけが存在すると主張する立場(参考2、P208)
 実在論:実在を主観から独立にあるものとして捉える立場(参考2、P209)

 

P140
 独我論では「他人が捉えた世界」は意味をもたない。私が捉えた世界はこの世界と等しい。ウィトゲンシュタイン独我論を徹底して独我論を蒸発させたことと同様に、デイヴィドソン相対主義を徹底して相対主義を蒸発させた。

 

 相対主義の主張である「ひとは自分の概念枠を離れられない」というころを突き詰めると「他の概念枠」は却下される。「他の概念枠」がなければ「自分の概念枠」もなくなり、単にこの世界と言えばよいだけになる。従って「概念枠」という考えも消失する。

 

 タコの足の動きは翻訳できないかもしれない。しかし日本人は翻訳できないものを取り入れてきた。「哲学」や「社会」といった概念は決して翻訳ではなかった。それは「習得」と呼ばれるものだ。

 

P143
 ここで「論理空間」について規定しておく。論理空間とは世界のあり方の可能性だ。それは意味不明でない限り、非常識で非科学的でもよい。論理空間を構成する要素は事実から成る。ただし事実は個別(富士山)と概念(山)に分節化され、それら諸対象と諸概念が意味を持つ(理解可能な)やり方で組み合わされ、論理空間となる。

 

P145
 日常会話を次のように分類する。
(1)    会話がなめらかに進行する
(2)    相手の言う意味が分からずに、会話が滞る
(2a)翻訳が必要
(2b)習得が必要
 
 日本語と日本語の会話において、2aと2bを説明する。
  (2a) 行為や概念は知っているが、相手が自分にとって新規の言葉を使った場合、あるいは間違った言葉を使用した場合に「翻訳」が必要となる
  (2b) 行為や概念を知らない場合、「習得」が必要となる

 

 日常会話が翻訳だけで済むためには、自分と相手の論理空間が同じでなければならないが、通常そんなことはない。我々は翻訳だけでは済まない部分を、新たな概念の習得し自分の論理空間を変化させて対応している。

 

P147
 翻訳不可能なものは言語ではないというデイヴィドソンの主張に対し、著者は翻訳不可能なものであっても習得が可能な場合があると言う。デイヴィドソンは翻訳という言葉に理解可能という意味を含めているかもしれない。しかしそうだとすると、「異なる概念枠など存在しない」という言い方そのものが矛盾を含んでいる。

 

<私的メモ:つまりそれは異なる概念枠があることを前提にした命題だからだ>

 

 著者は「異なる概念枠は現在形で確認することができない」ものだとする。未知の概念を習得すれば、それは(現在形では)未知ではない。しかし最初は理解できなかった概念を理解できるようになるという「理解の運動」において異なる概念枠の存在は示される。つまり 翻訳不可能でも言語でありうる。


<私的メモ:運動とは時間と位置の関係だ。理解の違いを理解の位置と見做せば「理解の運動」という表現は分かった気がする。8章の註で、自分は相貌と観点について時間が関係しているかもしれないと考えたが、異なる概念枠の理解においても時間が重要な因子として述べられている。相貌と観点と異なる概念枠、これらの関係をもう少しすっきり整理するためにも読み進めたい。>


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷

参考2 論理哲学論考 ウィトゲンシュタイン著 野矢茂樹訳 2018年第23刷(2003年第1刷)