「語りえぬものを語る」 読書メモ(第8章、その2)
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。本記事は8章の註である。
以下、本文からの抜粋。
P132
1、 クワインにとっての概念枠
クワインにとって概念枠は理論であり命題の集合である。よって著者はクワインの概念枠には反対する。著者は科学理論さえも命題の集合とは捉えきれないと考えている。
2、 眺望
眺望における視点は、現在見ている場所のすべてに置くことが可能だ。これに対して観点はその相貌を得ることでしか獲得できない。
(著者からの宿題。眺望における視点にも観点的な性格があるのではないか。自分の視点が眺望に依存することはあり得るのか。)
P134
3、 経験超越的な概念と相貌
電子のような経験超越的な概念に対し、相貌という考え方はどのように有効か。知覚できない電子に対しては真理の相対主義のパラドクスからの脱出は難しい。
<私的メモ:電子は命題の集合による理論体系から説明されることが理由だろう。>
例えば「霊魂」。死後の霊魂の存在を信じる人は、信じない人とは生死観が異なる。では生死観の違いとは何か。本文では概念枠を生き方だと記載した。この生き方が生死観である。生死観は死に直面した時の行動に違いをもたらす。
では我々は異なる生き方を、我々の視点を保持したままで外側から理解できるのか。相対主義の問題はこの一点にある。
死に対する活動を観察すれば彼等の行動様式は把握できるかもしれない。しかしこれは規則性・法則性を見出すといったレベルのものであって生死観を把握することではない。彼らの生き方を理解するには観察者の視点を保持したままでは不可能だ。
ここでもまた相貌が関わる。異なる生死観には異なる行動様式があり、これが世界の相貌の異なりを生み出している。
買おうとして見る商品と、ただ眺める商品では相貌が異なる。この先の十字路を直進する場合と右折する場合では十字路は異なる相貌で現れる。相貌は意味付けで違いが出る。行為への構えや意図は世界の相貌として現れる。
霊魂は経験超越的な概念だが、それが経験に秩序と意味をもたらすとすれば、経験超越的なものも相貌に関わる。電子も同様である。電子ありの理論を引き受けている研究者は電子なしの理論を引き受けている研究者と行動様式が異なる。行動様式が同じならば電子ありと電子なしの理論は実質的に同じでなければならない。
繰り返すが、行動様式の違いは相貌の違いをもたらし、それは生き方の違いである。これを著者は「観点が異なれば相貌が異なる」と表現する。
<私的メモ:「十字路を直進するか右折するかによって十字路の相貌が異なる」、「その商品を買うか買わないかで商品の相貌が異なる」、「行為の構えや意図は世界の相貌として現れる」。つまり相貌は時間が関係するのだろうか。眺望における視点は何だか静止画のイメージで、相貌における観点は何だか動きのイメージだ。いやいや、語感だけが先行するのはよくない。もう少し読み進めよう。>