作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第15章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は15章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P249
【無意味論と相貌論】
 意味などないという無意味論と、世界は相貌を持つという相貌論の関係は(一見)齟齬があるように見える。

 

クワス
 クリプキは規則のパラドクスを次の様に提示した。「x+yのxとyがともに57より小さいときには足し算と同じ結果を出し、xとyのいずれか一方でも57以上であるときには答えは5となる」これを「クワス」と呼び、通常の足し算(プラス)と区別する。


 本書第10章に出てきたグルーのパラドクスと、規則のパラドクスは異なる。規則のパラドクスは「意味」の存在を否定するが、グルーのパラドクスは否定しない。つまりグルーのパラドクスは無意味論をめざしたものではない。


 しかし、クリプキはグルーのパラドクスを使って規則のパラドクスを説明することができただろう。(例えば)プラスを教えたのにクワスを読み取り、グリーンを教えたのにグルーを学んでしまう。クワスもグルーも示された事例に対してわれわれとはまったく異なる解釈を与える可能性を示している。


 こうして問題は、規則の適用と言葉の使用に一般化される。規則や言葉は個別事例で教えられるが、教えられることは有限だ。それに対して適用対象は無限にある。有限の事例と無限の対象の違いにより、クワス的、グルー的解釈の余地が生まれるのだ。


 先のクワスの例において、50以下の数の足し算がクワス的解釈に基づかないことをどうやって証明できるのだろうか。クリプキは神でさえ証明できないと言うが、著者は神だからこそ証明できないと主張する(人間には証明できる)。なぜなら人間の行為空間の中にクワスの相貌は存在しないからだ。人間にはクワスでないことを証明できても神には証明できないということになる。規則による実践を開くのは神ではなく人間だ。われわれはプラスの相貌のもとに規則を捉える。われわれにはクワスの可能性は見えてさえいないし、われわれの行為空間にはクワスは存在しない。


 同じことはグルーにも言える。われわれはグリーンの相貌のもとにグリーンを知覚できるが、グルーは知覚できない。


 したがってクリプキの「プラスを意味する事象は無い」という主張は間違いである。普段の足し算はプラスであり、クワスを行うわけではない。若葉が緑であるとき、それはグリーンでありグルーではない。この普通の言い方が確保できるのもわれわれが行為空間に生きる人間だからである。

 

P254
クリプキが言うべきであったこと】
 しかし、クリプキは完全に間違ったわけではない。クワスもグルーも説明されればわれわれも理解できる概念であり、論理空間にある。クワスもグルーもわれわれの行為空間にないだけであり、頭ではわかるが体がついていかない概念なのだ。


 説明や、理由に根拠を与えることはすべて行為空間の中で為される。その論理空間の部分を「理由の空間」(マクダウェルの用語)と表現してもよい。足し算に異なる答えをした生徒が計算間違いであれば、われわれはそれを指摘できる。しかしクワスを見てとった結果の答えであれば、われわれは間違いを指摘することはできない。クワスを無視していることをわれわれは理由とともに説明することはできない。


 「プラスとクワスを区別するような事実(事例)は存在しない」のであれば、あらゆる適用を定める「適用の源泉」もありえない。

 

P255
【相貌と適用】
 クリプキの誤りは、規則のパラドクスが示す無意味論を強調するあまり、相貌論を排除したことにある。68+57に125と答える行動は、足し算の相貌すなわち足し算の意味を持つ。それは無意味論には抵触しない。


 クワスやグルーの概念を所有する者が見るものをわれわれは想像できない。相貌はその概念を所有していない者には現れない。それゆえ相貌の把握を通して適用の仕方を知るということはありえない。適用の仕方を知ることがその相貌を成立させるのだ。したがって相貌は「適用の源泉」ではない。


 まだ犬という言葉を学んでいない子供に対し、われわれの「犬の相貌」を学ばせようとしても無駄だ。まずなんらかの仕方で「犬」という語の使い方、「犬」の概念を学ばせることにより、はじめてその子に犬の相貌が立ち現われてくる。


 著者は昔概念を習得した頃のことはもう思い出せないという。そしてまるで生まれながらに基本的な諸概念を身に着けていたという気になっているので、概念習得に伴って世界の相貌が変化する過程を思い出すことはできないという。但し、パソコンの機能を習得する過程においては個別の概念が有機的な関連を持ったものに見えてくる(ことを著者は覚えている)。パソコンの相貌も、足し算の相貌も犬の相貌も体験の一種だ。


 相貌とはこうして身につけた技術知(know-how)が対象に投影されたものだ。「足し算」や「犬」の相貌は、その知識を使う技術があってはじめて立ち現われる。それはその知識を使うことで聞き手にどういう反応を引き起こせるかということも含まれる。これらが世界の相貌を成立させる。


 無意味論は相貌を否定しない。無意味論が否定するのは「適用の源泉という意味」だけだ。


<読書メモ: 相貌も無意味論も言葉のイデア的な意味を否定した上に成立するが、著者は相貌と無意味論のベクトルはまったく異なるということを強調している。
クリプキの言う無意味論は「足し算を意味する事象はない」を、クワスを使って説明している。しかし著者は、クワスを概念として含まない行為空間においては足し算という関数の判定に必要な意味が技術知として存在し、それが相貌を成立させていると言う。>

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷