作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第9章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。本記事は9章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P150
1、    会話のなめらかさ
 9章の会話のなめらかさとは、相手の発言を理解できるという意味だ。

P150
2、    経験と概念理解
 囲碁における「厚い」という言葉は表現できても囲碁を知らない人には理解できないし、棋力よってもその理解の程度は異なる。


 「ある語の意味が十分に分かる」ということを、ここでは「その語を十分に使いこなせること」としておく。ウィトゲンシュタイン風に言えば、その語を用いた言語ゲームに参加できることだ。


 この概念の特徴を述べる。第一に「厚い」という語を十分に理解するには経験が必要だ。第二に、その理解は経験に応じて浅い理解から不快理解への段階的に推移する。「犬」や「赤い」という概念はこの特徴を持たない。この違いは何に由来するのか。


 「厚い」と同じ特徴を持つ概念として「誠実さ」や「美しい」といった概念がある。これらはまた唯一の正解を持つ概念ではない。

 

 イワナとヤマメを見分けるには知識が必要だが、厚いかどうかを見分けるには洞察が必要だ。洞察には深浅がある。では何を洞察するのか。厚さにおいては囲碁の一局の展開全体であり、誠実さにおいてはその人の在り方の全体である。


 ここで、厚さや誠実さの「相貌」とは、それを見る人の経験と洞察の在り方に応じて異なったものとなる。

 

<私的メモ:他人の観点からの相貌を現在形で共有できない理由は、自分と他人の洞察の違いがあるからだと言える。洞察は正誤や真偽で区別できないという著者の主張でもある。>

 

P156
3、    固有名と論理空間
  異なる論理空間の違いとしては、まずそこに含まれる個体の違いが挙げられる。
   個体・・・個々の対象のこと。例として「富士山」「中村実」。
   固有名・・・個体が持つ名前のこと。例として「富士山」「中村実」。
 
 論理空間には個体に関する事実(事態)が含まれる。例「中村実が逆立ちした」。よって個体である中村実を知らない人の論理空間は、中村実を含む論理空間と異なると言える。つまり任意の二人の人物が同じ論理空間を有する可能性は極めて低い。

 

 中村実という固有名の翻訳は無力である。そこで中村実という個体についてその意味を習得する必要が生じる。

 

 この時初めて「中村実」という固有名を聞いた人は、それを小切手のような形で保留する。その小切手は中村実の意味を知った時点で換金される。意味を知らなければ不渡りとなる。この様に私たちの会話の中では小切手的なやりとりが常に行われているのだ。

 

<私的メモ:またもや時間の要素を含む例えである「小切手」が登場した。そして概念枠は国家間や言語圏間の理解を超えて個人間の理解の話に細分化されている。>

 

P159
4、    未知の概念
 「習得以前には未知の概念の存在を確かめることは可能だ」という反論がある。


 その反論の例として、カントの純粋理性批判には「感性的直観の多様性を結合するものは構想力である」ということが書かれているのだが、それが何だか分からない場合はそこに未知の概念があるという実例が挙げられる。

 著者は、その反論は違うと言う。

 我々は「感性的直観の多様性を結合するものは構想力である」という小切手を受け取ったに過ぎない。これが換金されるのか不渡りになるのかは受け取った時点では判断できない。判断できないということは、それが未知の概念かどうかを現在形で確かめることはできないのだ。

 

<私的メモ;カントの純粋理性批判(上)(参考2、P192~)には、この文章の意味するところをかなりの分量で説明しているものの、直接この文章は出てこない。ちなみに、この文章はカントの言う悟性を説明したもので、構想力にはアプリオリな悟性的判断の形式が含まれる。>

 

P161
5、    存在論的未知
 「まだ地球には人類の知らない謎が沢山ある」と言われるが、それは何かが既知となることで初めて知らないということが説明可能となる。しかし現在形で語れる未知もある。例えばヒグマの個体数がそうである。


 このように、現在形で語れない未知は自らの論理空間を広げるものであり、現在形で語れる未知は自らの論理空間を広げないものである。

 

 論理空間を構成する礎石は概念と個体である。そうすると、概念としては既知であっても、個体としては新規という場合もある。例えばまだ人類が出会ったことの無いクジラがいるという主張は、生物の新種のような新たな概念を示すものではないが、これもまた論理空間を広げ得る。ただしこの場合、現在形では「出会ったことのないクジラがいるだろう」という推量であり、「出会ったことの無いクジラに出会った」という過去形の主張である。

 

 そこで、概念と個体の存在についての未知を「存在論的未知」と呼ぶ。つまり現在形で語れない未知を「存在論的未知」と定義する。


<私的メモ:2,4,5は「存在論的未知」を説明する。>

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷
参考2 純粋理性批判(上) カント著 篠田英雄訳 岩波文庫 2020年第72刷(1961年第1刷)