作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)9章 メモ(8)

 ラッセルの哲学入門(参考1)9章の抜粋と読書メモの続きです。どんどん自信がなくなりつつあります。

 

P121、14行~P122、5行
 「エディンバラはロンドンの北にあるという事実は心的なものを前提とされていない。そして、「の北に」という関係は普遍である。もし「の北に」が心的なものを含むのであれば、「エディンバラはロンドンの北にある」という事実に心的なものを含まないということは不可能になる。
 それゆえ普遍は思考に依存しない。思考は普遍を捉えはするものの、普遍は思考と独立であることを認めるべきだ。
<読書メモ>
 以上で普遍が心的なものとは関係ないということの証明が為された、とすべきだろう。

 

P122、6行~14行
 ここで、『「の北に」は存在するようには見えない』というのみこみ難い点がある。
この関係は「いつどこに存在するか」と問われたら「どこでもないし、いつでもない」としか言えない。ロンドンとエディンバラのどちらに偏ることもなく中立(neutral)であり、特定の場所や時点(particular time)にあるとは言えない。
 一方、五感や内観(introspection)を通じて捉えられるものはすべて、ある時点に存在している。「の北に」という関係は、そうした存在とは根本的に(radically)異なっている。空間でも時間でもなく、物質的でも心的でもないが、それでも何かである。
<読書メモ>
 一見、「の北に」は空間の中の位置関係を表すので空間に属すると思ってしまうが、ラッセルは、「関係そのものは空間に存在しない」と厳密に述べている。
 ここでカントは「関係」のことを何と言っているか。
 カントは「関係」が普遍かどうかについては何も言っていない(と、私には読める)。「関係」は純粋悟性概念に入らないとし、それらを純粋感性のいくつかの様式とした(参考3 P153)。カントにとって問題なのは、「外的現象としての一切の物は空間において並存している(参考3 P95)という命題だけだ。北か南か、前か後ろか中か外かということは並存の様式に過ぎない。
 五感や内観を通じて捉えられるものはすべて空間と時間を通じて(形式として)表象される。そこに関与するのは感性であり、空間が感性のアプリオリな形式であるからには、そこに実存性と観念性が同時に存在するべきだとしている(参考3 P95)
 ラッセルは事実に人間の観念が混ざるというカント哲学の説明はそもそもおかしいとして、これに反論している。


 合ってるのか?


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 純粋理性批判 カント著、篠田英雄訳、岩波文庫2020年、第72刷