作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)8章 メモ(10)完了

 哲学入門(参考1)の8章の終わりです。P110の11行目からです。


<要約1>
 正しく語るなら、アプリオリな知識はすべて、心的世界や物理的世界の中に存在しないものに関わる、名詞以外の性質や関係といったものだ。例えば「私は部屋の中にいる」という文にある「中に」がそうだ。存在しないが意味を理解しているものがアプリオリな知識である。
 カントに追随する哲学者は「心が物自体と物自体を関係させ、その関係を判断する」と言うが、事実は思考しようがしまいが事実としてある。「ハサミムシが部屋の中にいる」という命題についてカント哲学は「ハサミムシという物自体と、部屋という物自体を思考が関係させて判断する」と言うが、そんなことはなく、思考の存在が無くても(気付かなくても)この命題は真でありうる。
 アプリオリな知識は心的でもなく物理的でもない世界にあるに違いない。(参考1 P110、11行~P111、14行)
<読書メモ1>
 ここでようやくラッセルの「アプリオリな知識」の定義が示される。ラッセルにとってアプリオリな知識とは性質と関係である。性質に関しては具体例が出てこないが、関係に関しては「中に」という例が出てくる。

   追記:アプリオリな知識の定義は既に7章で出ていた。参考1 P92、13行~P93、1行)

 

 やはり私はここでも混乱している。

 

 「中に」という空間における二つのものの関係を示す言葉が文章で使われている場合、それが誰も見ていない事実であっても、見た人が心的に関係付けたものであっても、どちらにせよその空間的な関係は「中に」という判断が為されなければならない。誰も見ていなくても、「ハサミムシが部屋の中にいる」という命題が与えられた瞬間に、その命題には人間の判断が介在するのではないか。
 ラッセルが言う「アプリオリな知識」も、カントが言う「ア・プリオリな直観形式」も、どちらも空間を前提として「中に」という判断が為されていることには変わりがないと思う。

 

 私の理解は何を外しているのだろうか。読み進めたら分かるのだろうか。


<参考>
 カントはア・プリオリな直観形式として時間と空間を挙げている。なぜそれがア・プリオリなのかという理由は、それ無しでは人間は現実世界を理解できないからだ。
 カントの生きている時代には無かった概念だが、ビッグバンから生まれた宇宙を例に挙げてみる。一般人がよく質問する「ビックバンより前に何があったのか?」という問いや「宇宙の外には何があるのか?」という問いに対して、物理学者は考えても意味がないと答える(マルチバース論的なものは、主旨から外れるのでここでは考えないでおく)。そこは時間あるいは空間、もしくはその両方が形式として扱えない領域だからだろう。
 ここで注目すべきは「~より前」とか「~の外」という問いである。「~より前」は時間に対応し、「~の外」は空間に対応する。いくら物理学者が「時間とか空間が扱えない領域ですよ、だから考えても意味が無いんですよ」と説明しても、一般人は「そんなわけあるか!何かはあるだろうよ!」と思ってしまう。これらの問いは意識せずとも時間と空間を前提とした質問になっているのである。つまり人間は時間と空間を外されるとまったく世界のイメージが出来ないということだ。
 従って、時間と空間はア・プリオリ(経験に先立つ)な直観の形式だと言える。

 

  

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 純粋理性批判(上) カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第72刷