作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第23章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は23章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P396
【相貌を見る】
 街に行き交う人々を見るとき、著者は単に「人として」しか見ていない。分解能が上がっても男女や老若等々の相貌でしか見ていない。そういった概念のレベルで見ているのだ。


 どの概念のもとに相貌を知覚するかは、その対象に対する知覚主体の関心に応じている。関心があれば詳細に、なければ大雑把な概念になる。また自分の手持ちの概念でしか対象を捉えることができない。


 では相貌を見るとはどういうことか。これに答えるには概念とは何かについて答えを与えておかねばならない。

 

【概念とプロトタイプ】
 「鳥」という概念は鳥たちの集合だ。「鳥」の概念を満たすものの集合は「鳥」の外延と言われる。あるいはその集合を規定する諸特徴とも言われる。そのような外延を規定する特徴は内包と言われる。このように外延や内包によって概念を捉えようとする考え方は「古典的概念論」と呼ばれる。


 古典的概念論に従って「鳥」という概念を外延的に捉えるとき、その集合には「鳥」と呼ばれるあらゆるものが属している。そこにはペンギンもいるが、空を飛ぶ鳥の歌に出てくる鳥にはペンギンは含まれない。


 われわれの概念理解には鳥とそうでないものを弁別するだけではなく、鳥らしいものと鳥らしくないものを区別する理解も含まれる。そこで認知意味論はそうした典型例を「プロトタイプ」と呼ぶ。古典概念論に反して、ある概念の核心をその概念のプロトタイプを把握しているとする捉え方だ。


 このようにプロトタイプを重視するとき、二人の人が同じものを「鳥」と呼んだとしても、つまり外延の規定は同じだとしても、何を典型例にするかによってその概念内容は異なりうることになる。


 ペンギンを鳥のプロトタイプと捉える人はカラスを見て「変な鳥!」と言うだろう。その人はわれわれとはかなり異なる「鳥」概念をもつ。


 あるいは時代によって変化するプロトタイプもある。たとえば「男」の概念は今と昔では変わっている。

 

【意味と事実】
 「鳥」という概念と「空を飛ぶ」という属性の関係を考えたとき、「空を飛ばない鳥」は矛盾しないため、古典的概念論のもとでは「鳥」には「空を飛ぶ」という属性は含まれない。


 だが、プロトタイプという考え方においては「ふつうの鳥は空を飛ぶ」は「鳥」の意味に関わるものだ。この場合「鳥」という語の意味、鳥の概念の内に、典型的な鳥についての様々な事実が入り込む。これはプロトタイプという考え方の重要な帰結だ。


 しかし、どのような事実でも意味の内に入り込むわけではない。カラスは紫外領域を見ることができるが、それはカラスの概念には含まれない。では、どのような事実が概念に含まれるのか。この問いは「プロトタイプ」とは何なのかという問いである。

 

【典型的な物語】
 梢で鳴いているカラスは鳥のプロトタイプだろうか。カラスは鳥のプロトタイプだとしても、梢で鳴いているあれは鳥のプロトタイプではない。あのカラスはあれなりに個性を何か持っているだろう。しかし、プロトタイプは一切個性を持たない。プロトタイプは現実に存在するものではなく、概念的に構成された抽象的なものだ。


 そこで著者はプロトタイプの通念を「典型的な物語」と呼び、概念を理解するということは、その概念のもとに開ける物語を理解することだとする。


 それゆえ、概念を教えるにはその概念の典型的な物語を教えねばならない。例えば恋愛小説やドラマはそれぞれに個別の要素が含まれるが、そこで教えたいのはふつうの恋愛である。ふつうの恋愛とはいっさいの個性を剥ぎ取られた徹頭徹尾凡庸な恋愛であり、おそらくは世の中に存在しない恋愛である。
 
【物語を見る】
 相貌を見るとは何か。


 相貌とは、あるものをある概念のもとに知覚することだ。相貌を知覚するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語をそこにこめて知覚することであり、われわれはそこ(相貌)に物語を見ている。


 相貌は、それ(認識)をどのような物語の内に位置づけるかに応じて変化する。例えば泣いている女性が写った写真は、前後のどんなストーリーをもつかによって劇的に異なる相貌を持ちうる。われわれが現実に出会うどの一場面も、なんらかの物語の一場面だ。それに関心が無いときは「人」や「犬」や「空き缶」もそれぞれの来し方と行く末がある。それに関心が無ければそこに読み込まれるのは「人」や「犬」や「空き缶」という語を用いて語られる典型的な物語だ。


 相貌には物語がこめられている。一般に何かを「aとして」知覚するとは、「a」という言葉を用いて語りだされる典型的な物語をそこにこめることだ。相貌とは、言語がわれわれに見せる世界なのだ。
 
【現実のリアリティ】
 だが、現実はつねに、典型的な物語をはみ出している。


 第一に、現実は典型的な物語にはない豊かなディテイルをもつ。ある犬をたんに「犬」としての相貌で見ていたとしても、その犬の今朝のことや色や形など、典型的な物語では触れられていない細部に満ちている。


 第二に、しばしば現実は典型から逸脱する性質やふるまいを示す。「変」とまでは言わないが典型からずれていることはいくらでもある。


 「実在性(リアリティ)」には二つの意味がある。一つは際限のないディテイルをもつこと。もう一つは典型的ではない物語への逸脱である。目の前のことに関心がなければそれは典型的な物語の内側にある。しかし同時にそこからはみ出す実在性もわれわれは受けとっている。


 典型的な物語はあくまでスタート地点であり、言語による「初期設定(デフォルト)」だ。われわれはまず言語が見せる相貌の世界に立つ。そして、世界の実在性に突き動かされ、新たな物語へと進むのだ。

 

 

<読書メモ
 言語による典型的な物語があることで見えなくなっているものが沢山ある。野矢氏は、まず現実があって次にそれを表現する言葉が出てくるという私の常識を覆す。言葉に伴って私の中には予め典型的な物語があり、私は目に映ったものにその物語を当てはめているのだという。そこがスタートであり、世界の実在性に伴って物語の追加修正が行われる。
 かなり飛躍するが、自己認識をこの流れに沿って解釈するとどうなるのだろう。自分は自分に関する多くの物語を持っている。それは言語が見せる私自身の相貌だ。
 だが、人は自分自身に信じ込ませている嘘の物語を持っていることがある。それもまた私から見れば私自身の相貌だ。
 嘘であることは注意深く隠され、自分自身でさえ巧妙にだまされているので殆どの人は一生それに気付くことはない。これがキェルケゴールの言うところの絶望だ。このへんは「死に至る病」(参考2)に詳しく書かれている。
 自己認識に限った話ではないが、もし相貌に主観的なものが混ざっているとすれば、私は私の見る相貌を短絡的に普遍だとすることのないよう、かなりの注意を払う必要がある。>

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷
参考2 死に至る病 キェルケゴール著 斎藤信治訳 岩波文庫 第108刷