作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第22章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は22章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P377
 知覚は言語的な体験か、非言語的な体験か。これは現代哲学の論点のひとつだ。知覚を言語的・概念的だという主張は「概念主義」と呼ばれ、知覚を非言語的・非概念的だという主張は「非概念主義」と呼ばれる。


 ここで著者は、概念的な知覚も非概念的な知覚もどちらもあるという立場をとる。

 

【知覚と相貌】
 概念主義の旗頭ジョン・マクダウェルは、前章のウィルフリッド・セラーズの「所与の神話」を踏襲する。言葉で語られないものは言葉で語られた知識にはなり得ず、知識は概念的でなければならないという主張だ。


 それに対して著者は、非概念的な体験が概念的な知識を正当化すると論じてきた。つまり、知識はわれわれが行為する場面で活用されるが、その行為がうまくいくかどうかはその行為がどのような言葉で語られるかということとは別問題だということだ。ロケットが飛ぶ、お腹をこわす、といった非概念的経験が行為の結果である場合、知識の正当化は概念的でも非概念的でもどちらでもよい。


 マクダウェルの議論とは別に、知覚は概念的・言語的側面を持つと著者は考える。第7回で出てきたクリーニャーという概念を持つ人は、猫を見ても掃除機を見ても「クリーニャー」だと言う。われわれには猫だと見えるそれが、彼等にとっては「クリーニャー」という相貌をもつ。それはわれわれには想像もつかない相貌だ。相貌はまさにどのような概念を持つかに依存する。


 われわれの知覚するものはさまざまな性質や状態や動作、そしてそれらが組み合わさった事実という相貌をもっている。では、知覚はすべて概念的なのだろうか。

 

【無意識的な知覚】
 知覚には無意識的な知覚もあるということを見ていこう。


 飛んできたボールを「ボールが飛んできた」という自覚なしによけるということはあるだろう。そのとき、「目に入っていたけれど見ていなかった」あるいは「無意識のうちに見ていた」と言われるかもしれないが、いずれにせよ「目に入っていた」と言われうる。これを著者は知覚と呼ぶ。情報が入力されて行為や行為の構えが引き起こされ、それが適切であるならばその情報の取得は知覚だ。


 無意識的な知覚を認めるならば、非概念的な知覚も認められるだろう。感覚器官を通して非概念的な情報が入力され、それを自覚することなく身体がその刺激に反応する例はいくらでもある。


 とはいえ無意識の知覚がすべて非概念的というわけでもない。無意識のうちに相貌を知覚し、反応していることもある。例えば、パーティー会場で背後の会話を聞いていなかったのに自分の名前が口にされたらそこだけ聞こえてくる現象がある。ここで無意識のうちに処理されたのは会話であるから概念的なものだ。よって無意識のうちに概念的に知覚されたと言える。


 つまり、無意識の知覚のレベルでは非概念的な知覚も概念的な知覚もともに見出せる。では、意識的な知覚の場合はどうか。

 

【微妙な色合いという問題】
 概念主義は、意識的な知覚はすべて概念的であると主張するが、著者は意識的な知覚にも概念的な知覚と非概念的な知覚があるとする。


 非概念主義の主張はシンプルだ。りんごの色合いをすべて言語で表現することはできないというものだ。


 これに対してマクダウェルの反論はこうだ。
 「確かに微妙な色合いを表現する言葉はない。しかし『この色合い』や『あの色合い』といった言い方で表現することはできる。『この』『あの』という指示詞で表現されている色が新たな色見本になり、概念的に色を捉えられていることになる。かくして、われわれが認知しうる色合いはすべて概念化が可能だ。」


 著者はこのマクダウェルの反論に反論する。


 「『この色合い』だけでは概念を形成したことにはならない。見本が必要であり、言葉だけでは定義ができないからだ。概念はわれわれの安定した言語使用において形成される。ヴィトゲンシュタイン的に言えば概念を定めるのは慣用であり、グッドマン的に言えば習慣による囲い込みである。


 第二に、初めてその色合いを見た場面ではそれに関わる慣用も習慣も形成されていないので、われわれは概念をもっていない。例えば「クリーニャー」の概念をわれわれは理解し、既存の日本語に翻訳することはできるが、「猫または掃除機」といった概念を実際に使いこなしてはいない。その意味でわれわれは概念をもっていない。


 日本語で表現できない「その色合い」は既存の日本語で用いられていないので、われわれはその概念を使いこなしてはおらず、その概念をもっていない。するとほとんどの色合いについてわれわれは概念をもっていないと言ううべきだろう。

 

【味覚はどのようにして概念的なのか】


 味覚の事例で考えてみる。第一レベルは「この味、好きだなあ」という素人レベル、第二レベルはその味を再現できる(識別できる)、第三レベルは実際に口にしていなくてもその味を作ることがで、更に加工を加えることができるレベルだ。


 ここでマクダウェルは概念的な知覚の条件として第二レベルを要求しているが、著者はこれに二つの点で反論する。


 第一に、著者は実際の経験のレベルをマクダウェルよりも低く設定する。再現のできない素人レベル(第一レベル)は確かにあり、それそのものが非概念的な味覚経験であるからだ。


 第二に、著者は「概念的」レベルをマクダウェルよりも高く、料理人レベル(第三レベル)に設定する。概念というからには実際に存在しなくてもそれを用いて思考できなければならない。


 つまり再現できない(非概念的な)味覚はあるし、再現できるから概念的だというには不十分なのだ。

 

【非概念的な知覚は概念化の可能性を持つ】
 知覚は意識的であれ無意識的であれ、概念的なものと非概念的なものをともにもっている。「曇った空」は概念的に捉えられると同時に非概念的なニュアンスや表情をまとった相貌として現れている。


 最後に、非概念的な知覚は概念化の可能性をもっていることを説明する。マクダウェルの「この色合い」は概念化の緒端を与える。「この色合い」を見本として慣用と習慣の形成を働きかけ、それが定着すればわれわれは「この色合い」の概念をもつようになる。あるいは「山笑う」という表現がわれわれの言語実践の中に定着すれば、「山笑う」という相貌が立ち現われるだろう。こうして非概念的な知覚はいつか語り出されるかもしれないときを待っているのだ。

 


<読書メモ
 以下、本章のまとめとメモ。
 「知覚は意識的であろうがなかろうが、常に概念的なものと非概念的なものという両側面を持つ。この説明のために例示されたのは色合いと味覚だ。そして、非概念的な知覚は概念化される可能性を持っており、概念化された状態を著者は「相貌が立ち現われる」と表現している。ただし相貌は概念から立ち現われるのだとしても、常に非概念的な知覚を含んでいるとも言える。」
 著者の言う相貌がここでも解説されている。相貌は言葉で分節化された概念を元に立ち現われるものだ。しかし同時に非概念的な側面もあわせもつ。著者からすると、形而上の概念は相貌とは呼ばないのだろう。>

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷