作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第21章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は21章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P360
 現代哲学では「語られたことだけが語られたものを真にする」という考え方が主流だが、著者の考えは「語られないものが語られたことを真にする」である。

 

【所与という考え】
 「いま外で雨は降っていない」ということを「知っている」ためには根拠が必要だ。外を見て、青空があり道が濡れていないということがその根拠となる。


 ここでは、どういうルートでそれを知るようになったかが決定的に重要だ。人から教えてもらった情報や、本やインターネットで入る情報も、元をたどれば誰かが経験し観察したことに基づく。すなわち知識は経験に基づく。


 青空や道路が濡れていないことを観察し、雨が降っていないと知る。この観察に基づいたルートは適切である。観察は知識の出発点としてわれわれに直接与えられたものであり、その意味で観察は「所与(データ)」と呼ばれる。


 そして、知識がそこから出発すべき最初の地点として「感覚所与(センスデータ)」と呼ばれるものが考えられた。知識獲得の出発点は無知の人間にも観察できるものでなければならない。そうだとすると「道が濡れていた」は「道」や「濡れている」という概念が含まれているから最初の出発点ではない。(最初の出発点は)非概念的な経験なのだ。


 非概念的な経験とは机や棚の色と形から意味を剥ぎ取った非具象的な世界を見ることだ。


 他方、「雨」とか「降っていない」という言語的な知識は概念によって捉えられた概念的な知識だ。かくして「非概念的な経験(センスデータ)に基づいて概念的な知識が獲得される」という考え方が提唱される。

 

【所与の神話という批判】
 だがセンスデータ論は厳しく批判された。どうして非概念的で意味を欠いたものをもとに「だから、しかじかの知識が得られた」と言えるのか。


 ここにおける「だから」は因果関係ではなく推論関係だ。では、「このような非概念的な経験をした。だから、しかじかの知識が得られた」はどうか。知識を正当化するためのデータはその知識の証拠となるものであるから、その関係は推論関係でなければならない。しかし推論は言語的内容において成り立つものであるからだ。それに対して非概念的な経験は言語的な分節化をもたない場のようなものにすぎないので、何も推論できない。一切の意味を奪われたものは概念的な知識の証拠にはなり得ないのだ。


 ウィルフリッド・セラーズはこの事情を、非概念的経験は「理由の論理空間」には属さないと表現した。知識を根拠づける最終的な所与として非概念的経験をもちだす考え方を、セラーズは「所与の神話」と呼んで批判した。


 それゆえ、観察が概念的な知識の根拠となりうるためには、観察もまた概念的なものでなければならない。言い換えれば、語られた知識を支えるのは、語られた観察だけなのだ。


 かくして、非概念的な経験――非言語的な体験、すなわち語られないもの――は、知識にとって何の役目も果たさないと結論できるように思われる。しかし、著者はこれに反論する。

 


<読書メモ
 センスデータはバードランド・ラッセルの『哲学入門(参考2)』によると「感覚によって直接的に知られるもの――色、音、におい、硬さ、手触りなど――」であり、これらを直接意識している経験を「感覚」と呼ぶ。(参考2、P15)『哲学入門』においては、感覚が各人異なるにもかかわらずそれが一つの物だとどうして分かるのか、ということに言及しているが、非概念的経験の概念化についてはほとんど触れられていない。>

 


【知識の獲得と活用】
 われわれは概念化されたものだけに影響を受けるわけではない。インフルエンザの概念がなくても感染すれば身体は反応する。あるいは言語を持たない動物もさまざまな状況に反応する。人間も動物として非言語的・非概念的なレベルで状況に反応している。こうした動物的な生を適切に導くことが適切な概念的な知識と言える。知識の最終的な審級は概念的な観察ではなく、非概念的な動物的生なのだ。


 著者が共訳として関わったロバート・フォグリンのWalking the Tightrope of Reasonによると、人間の理性は野放図に本領を発揮させるとろくなことにならないので理性には手綱が必要だが、理性の手綱を理性にとらせてはならず、理性は非概念的な制約に服さねばならない。理性が非概念的な制約を逃れた最たるものが哲学であり、うまく手綱がとれている例が自然科学だという。

 


<読書メモ
 「理性の手綱を理性にとらせてはいけない」ということはいろんな人が過去繰り返し述べている。
 「悪魔は精神だけであり、その限り絶対に透明な意識であって、情状酌量に役立つべき無意識性をもっていないから、――その故に悪魔の絶望は絶対の強情である。」(キェルケゴール死に至る病』より(参考3、P81)

 最高の合理を備えたはずの官僚制も、理性に手綱を持たせると危険だ。
 「慈悲深い専制主義と絶対主義における一人支配が国家国民の最初の段階だとすれば、官僚制はその最後の統治段階である。(中略)実際、それはある環境のもとでは、最も無慈悲で、最も暴君的な支配の一つとなる場合さえある」(ハンナ・アレント『人間の条件』より(参考4、P63 )

 太平洋戦争は日本のトップの多くが反対していたという分析をよく目にする。これが本当だとすると、当時は高度な官僚制すなわち高度な組織的理性が支配していたことになる。現在の日本も、戦時中の多くの体制を残していることから、危ない面を保持しているはずだ。ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』(参考5)の例を挙げるまでもなく、日本はリアルに官僚制の恐ろしい一面を知っていなければならない。>

 


【科学と技術】
 「観察データを集め、それをうまく説明するような理論を立てる」というのは自然科学の半面でしかない。知識は獲得するだけではなく、使うためにある。そして知識を活用する場面こそ、知識は非概念的な制約に服すことになる。


 ここで科学と技術の関係を「科学理論が技術と独立に前もって確立され、それが技術に応用される」と考えてはならない。科学と技術の関係は一方向的ではなく互恵的だ。すなわち人間がその技術を用いて活動することにおいて、理論は世界と接触し、擦り合わされる。技術における成功は理論の信頼性を増し、さらなる理論展開を促すだろうし、技術における失敗は理論のどこかがまちがっていたのではないかと疑わせるきっかけとなる。


 科学における実験の役割はたんにデータの収集だけではない。理論を技術の形でわれわれの生活に取り込む前に、人工的に整えられた環境の中で模擬的に適用してみるという意味が、実験にはある。


 実験であれ実際の活用であれ、概念的に捉えられた理論を物として実現し、世界の中で動かしてみる。それは順調に動いたり抵抗にあったり、あるいはまったく動かなかったりするだろう。その抵抗こそ、非言語的な場としての世界が理論に向けてくる「力」なのだ。


 「所与の神話」は知識を獲得する場面に関しては正しい。しかしそれは「知識は経験に基づく」ことの半面にすぎない。知識の活用においては非言語的体験――語られないもの――こそが決定的に重要な役割を担っている。

 

【知識と行為】
 日常的な知識の場面でも、知識は活用されるべきである。もちろん持っている知識すべてが活用されることはあり得ない。だが、知識である以上誰かがどこかで活用する場面が見出されなければならない。


 知識の活用は、最終的にはそれを踏まえて行為することだ。雨が降っている知識を踏まえて傘をさすという行為が導かれる。ここにおいて人は非言語的な体験に晒される。うまくいけば知識は信頼性を増し、そうでなければ再点検されねばならない。このようにして「語られないものが語られたものを真にする」のである。

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年第1刷
参考2 哲学入門 バートランド・ラッセル著 高村夏輝訳 ちくま学芸文庫、2018年 第20刷(2005年発行)
参考3 死に至る病 キェルケゴール著 斎藤信治訳 岩波文庫、2019年第108刷(1939年発行)
参考4 人間の条件 ハンナ・アレント著 志水速雄訳 ちくま学芸文庫、2022年第42刷(1994年発行)
参考5 一九八四年 ジョージ・オーウェル著 高橋和久訳 ハヤカワepi文庫、2020年 第4刷(2009年発行)