作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第21章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は21章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P370
【1 無用な知識】
  「知識はいつかどこかで活用されねばならない」は強すぎるだろう。けっこう沢山の知識が無用なものだと思われる。ただし、二点注意しておきたい。


(1)    知識は「公共財」だから、ある個人にとって無用でも共同体全体を考えれば無用ではない知識もある。
(2)    知識は単独で活用されるのではなく、組合せて活用される。複数の知識は互いに関係し合い、体系を成す。それゆえある知識を単体で取り出して無用だと決めつけてはならない。


 ではこの二点を踏まえても無用な知識はあるだろうか。


 無用な知識の場合には「成功裏に活用できれば真」というプラグマティックな基準は適用できない。では無用な知識はいかにして真とされるのだろう。


 歴史上の豆知識の場合、記録に残されていることがこれを真とする。一般に歴史的事実の場合、史料が証拠となる。そして証拠関係は、推論的なものだから言語的だ。この場合は語られたものが知識を正当化している。


 著者は語られないものが語られたものを正当化すると論じたが、語られないものだけが語られたものを正当化するとまでは主張していない。


 知識の正当化はプラグマティックなものが優先されるが、同時に証拠(語られたもの)に基づく正当化もなされる。われわれはこれらを併用しているのではないだろうか。


 ただし、著者はまだまだ検討すべきことが残されているため、この考え方も暫定的だという。

 

【2 知識を踏まえた行為】
 「知識を踏まえて行為する」という言い方は曖昧だ。そこで「踏まえる」を定義しておく。


 歴史の豆知識を披露して「へえ」と言ってもらうとか、その豆知識にちなんだラーメンが売れたりするかもしれない。しかしこれらは知識の正当化とは無縁であり、われわれが求める意味での知識の活用ではない。


 では「知識を踏まえて行為する」とはどういうことか。例えば目の前のものを見て卵だと判断する。著者はそれが卵だという知識と、「卵はゆでると固くなる」という知識を組み合わせてゆで卵を作る。著者は世界の事実そのもの、世界のあり方を利用している。


 知識を踏まえて行為することのポイントは、行為を通してその知識が世界と接触・交渉することにあり、世界の事実に到達していなければならない。


 豆知識にちなんだラーメンを売ることは、豆知識として語られた(書かれた)ことを利用しているが、豆知識そのものを利用しているわけではない。


 世界の事実を踏まえて行為することは、その事実が成り立っていることを前提に行為することだ。だからこそその行為の失敗は、その事実が実は成立していないかもしれないという疑いを促す圧力となる。

 

【3 観察文の真偽】
 著者は「語られないものが語られるものを真にする」からといってセンスデータ論には賛成していない。


 観察したものを報告する文を「観察文」と呼ぶ。例えば「私の机の上にはコーヒーカップがある」は観察文だ。センスデータ論はこうした観察文の証拠になるような経験があると考えた。だがそれは「所与の神話」批判が論じる通りまちがいだ。観察文はそれを疑う理由が無い限り、それを正当化する証拠を必要としない。観察文は無証拠だと言ってよい。


 むしろ、観察文はそれを踏まえて行為することにポイントがある。それゆえ、観察文はセンスデータ論とは違う意味で、語られないものによって真とされる。「私の机の上にコーヒーカップがある」という観察文は、私がそのコーヒーカップを手に取りコーヒーを飲むということを遂行できれば真なのだ。


 ただし、われわれは行為空間に生きているのでいたずらな懐疑は遮断されている。それゆえ、疑う理由がない場合観察文はデフォルトで真なのだ。


 だがわれわれはときに見間違いや聞き間違いをする。それは行為の失敗として現れるだろう。そのとき初めてわれわれはその観察文を疑う。観察文の場合は「語られない者によって真にされる」というよりも「語られないものによって偽にされる」と言ったほうがより実情に即している。

 

<読書メモ
 ここで批判されているセンスデータ論をもう一度ラッセルの哲学入門の記載から考えてみる。
 私は、前回のブログの読書メモで「ラッセルの哲学入門(参考2)では、非概念的経験の概念化については触れられていない」と書いた。もう少し引用するとラッセルは「センスデータに対応する対象があるという本能的信念(参考2 P31)があると述べている。 
 ラッセルの哲学入門を読んだ時は、「本能的」といった議論のしようのないものについて引っ掛かり無く読み進んでいたが、本書「語りえないものを語る」を読むに従って、そこに幾つもの細かい段階があるということに気付かされた。

 

 もう一つ、本論とは離れるが思いついたことを書く。


 恐ろしいことに、私自身の真偽は私自身が語ったこと“以外”で判定される。いくら立派なことや正論あるいは反省を述べたとしても、私からあふれ出す欺瞞や計算は相手に分かってしまう。まさに「語られないものによって偽にされる」とはこのことだろう。
 相手に自分の偽を悟られないためには、相手との交流を断つ以外に手段はない。自分だけの世界、他者との関わりの無い世界に行けば、他者から私を偽と判定されることもない。その世界で私は国王になれるだろう。しかしそんなところにリアリティは無い。
 ではどうすれば良いか。といっても、どうにもできない。無防備に私を語ることで、他者から私の語らない何かを批判され続けるより他に道は無い。破滅的だが、破滅への下降を優越とすり替える欺瞞が無い場合に限って、おそらくそこにはリアリティが有るのだろう。>

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷
参考2 哲学入門 バートランド・ラッセル著 高村夏輝訳 ちくま学芸文庫、2018年 第20刷(2005年発行)