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哲学入門(バートランド・ラッセル著)14章 メモ(2)

 ラッセルの哲学入門(参考1)14章「哲学的知識の限界」の、抜粋と読書メモです。


P175、4行~P176、10行
 ヘーゲルの構想は崇高であり同意したいと思ってしまうものだが、正当化できない前提が多く含まれる。この体系は「不完全なものは自立できず、他のものに支えられて存在する」という教義に基づく。そうであれば「他のものと関係するには、それ自身の本性を基準として他のものと関連付けられねばならない。よって他のものが存在しなければそれ自身はそれ自身として存在できない。」ということになる。
 例えば人が何かを知り、他人を憎んだり愛したりすることは他のものという対象がなければできない。知る、憎む、愛するはその人の不完全な部分を埋める行為であり、その人が断片的だということを示している。
 この見解はものの本性という概念に基づいている。本性とは、「そのものに関するすべての真理」だ。事物の真理は事物の一部ではないが、この見解によると、事物は事物の本性の一部だといえる。
 すると、あるものの本性を知るには宇宙にあるすべてのものとの関係を知らねばならないことになる。しかしこの意味で本性という言葉を使うのであれば、「私たちはものの本性を完全には知らないときであっても、そのものを知ることができる」とすべきだ。
 つまりこの意味で本性を使うときは、ものの知識と真理の知識を混同しているのだ。

 

 

<読書メモ>
 ラッセルのヘーゲル哲学の理解は、完全な精神世界である「絶対観念」を構成する実存の断片(個別の事物)は不完全であり、相互に関係し合うことで存在しているというものだ。不完全ゆえに正・反・合を繰り返し、互いに新しい観念に進んで最終的に完全な世界に辿り着く。
 ここで不完全性とは実存の断片(=個別の事物)の本性である。そして本性とはそのものに関するすべての真理だ。つまり本性にはそのものと、そのものが他のものと関係するところの関係の両方を含むことになる。おそらくラッセルは、ヘーゲルが実存の断片にそのものの知識(=ものの知識)と他のものとの関係(=真理の知識)の二重の意味を持たせていることを批判しているのだと読める。


 これでいいのかなあ。

 

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm