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哲学入門(バートランド・ラッセル著)14章 メモ(3)

 ラッセルの哲学入門(参考1)14章「哲学的知識の限界」の、抜粋と読書メモです。


P176、10行~P177、9行
 私たちはあるものを、仮に二、三の命題しか知らなかったとしても、あるいは理論的には命題を知らなくても、面識によって知ることが出来る。だから先の意味での「本性」の知識に面識の知識は含まれない。また、あるものの命題を知るとき、面識はそこに含まれるのだが、先の意味での「本性」の知識は含まれない。

 

 従って、
(1)    あるものとの面識は、他のものに対して持つ関係の知識を論理的に含んでいない
(2)    そうした関係のうち任意の一つに関する知識は、すべての関係に関する知識も、先の意味での「本性」の知識も含まない。

 

 たとえば私は私の歯痛を面識できる。痛みの知識は完全である。歯医者は痛みの原因を教えてくれるが、私はそうした知識が一切なくても、つまり先の意味での「本性」を知らなくても痛みの面識による知識は完全である。

 

 よって、あるものが何かに関係しているという事実は、そのものにとって不可欠であることを証明しない。

 

 つまり、そのものの事実だけからその事実以外の何かとの関係を演繹することはできない。わたしたちは関係を既に知っているので、そうした推論ができると思えるにすぎない。

 

 

<読書メモ>
 「先の意味での『本性』」という言葉が繰り返し出てくるが、これは存在は他の何かに支えられて初めて存在であり得る、というヘーゲルの説を示している。このラッセルの記述によると、ヘーゲルの「絶対観念」という完璧な精神世界は面識による知識が「絶対観念」から独立であることにより否定される。

 

 まさかこの簡潔な反論でヘーゲル哲学が崩れるなどと私は思わないが、この指摘を私はこう理解する。

 

 面識による知識と、いくつの項が関係する真理の知識は分けて考えなければならない。そして、いずれの知識の真偽も連続的なグラデーションを含むので、演繹され止揚された世界の扱いは、元となる知識の構造と真偽のレベルを十分考慮しなければならないのだろう。

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm