作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第22章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は22章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P387
【1 概念主義に対するもう一つの反論】
  概念主義に対するもう一つの反論として、「言語を持たない動物や赤ん坊は知覚していないことになる」というものがある。概念主義者はこれに対し、概念主義は言語をもつ人間についての主張であるため、それ以外を論ずるものではないと反論するだろう。必要であれば非概念的知覚を認めることもできる。概念主義は言語をもった人間の意識的な知覚についてはすべて概念的だとする。


 しかし、これは赤ん坊の知覚と言葉をもつ人間の知覚をまったく異なるものとして峻別する考え方だ。著者はこの考え方をわれわれの直観に合致しないものだと指摘する。著者は動物や赤ん坊の知覚は、部分的にせよわれわれと共通なものであるはずだとする。ただしこれは反論というほど強いものではない。

 

【2 非概念的な知覚と複眼的構造】
 かつて著者は知覚と感覚の違いについて、知覚は「――であることを見る」といった形式をもつが感覚はもたないとした。例えば痛みは「――であることを痛む」といった形式をもたない。


 しかし当時著者は概念的な知覚しか考えていなかった。ゆえにここではこれを修正する。


 「――であることを見る」の「であること」とは言語的・概念的な内容だ。では非概念的な知覚は感覚に近いのか。


 まず、著者が現在考える知覚と感覚の違いの核心はこうだ。知覚は「同一の対象を異なる視点から捉えること」にある。(ここでいう「視点」とは視覚以外の知覚様態まで拡張されるものだ。)これを「複眼的構造」と呼ぶ。


 これに対して感覚は「複眼的構造」ではなく「単眼的構造」をもつ。コーヒーカップを知覚する場合に「もっとよく見てごらん」という言い方はできるが、感覚であるところの痛みは「もっとよく痛んでごらん」とは言わないからだ。


 ここで、非言語的な知覚も複眼的構造を持つのかという問に対して著者は持たないと言う。世界を対象に分節化するのは言語だけなので、非概念的・非言語的な知覚は複眼的構造を持ちようがないのだ。そう思われたのだが、【1】の直観に従ってもうしばらく進んでみることにする。


 非言語的知覚が複眼的構造をもたなくても非言語的知覚は「知覚」と呼べる場合がある。例えばコーヒーカップのいわく言い難い色合いがあったとすれば、それを見るために近付いたり手に取ったりするかもしれない。このように視点を変えて観察することも可能になる。そうだとすれば、最初に言語的・概念的な知覚において対象が与えられ、その上でその対象のもとに非言語的・非概念的知覚が成り立つという構図になっているのではないか。


 しかしこれは第20章で論じた想起の議論とパラレルである。(議論の構成が似ているということ)。


 想起の議論とはすなわち、過去への志向性をもつのは言語だけであり、非言語的な身体的記憶はそれ自体では過去についてのものにはならないこと。記憶はすべて言語的であるとは言えないが、少なくとも言語的想起がなければならないといった議論である。


 同じことが知覚にも言える。知覚において対象への志向性をもつのは言語的知覚だけであり非言語的知覚はそれ自体では対象のものとはならない。知覚はすべて言語的・概念的であるとは言えないが、少なくとも言語的・概念的な知覚がなければならない。


 そうだとすると言語をもたない動物や赤ん坊はどうなるのか。これまでの議論では概念的知覚がゼロであれば非概念的知覚は複眼的構造をもちえないことになる。他方、著者は複眼的構造を知覚の本質と考えてきた。よって選択肢は2つだ。


(1)    言語をもたない動物や赤ん坊は知覚しない
(2)    複眼的構造は知覚の本質ではない


 著者はいったん(1)を結論とした。猫は後悔しないだろう。猫は分節化した構造をもった言語をもたないそれゆえ対象を分節化していない。同一の対象をさまざまな視点から捉えることもない。したがって知覚していない。――この議論のどこかに穴はないか。


 言語をもたない動物に複雑な心の動きはない。だが言語をもたないことで何が失われているのかを慎重に見きわめなければならない。見きわめるのは「言語をつかう」と「知覚する」ということの間の概念上の連関である。


 分節化された言語は、事実に反する可能性を理解する。動物は現実べったりなので「ああすればよかった」とか「こうしなければよかった」といった後悔はもちえない。


 また、対象を分節化するということは、その対象を異なる状況において考えることができるという反事実な了解を必要とする。例えば机の上のコーヒーカップを別々の対象として理解するためには、そのコーヒーカップが手の上に置かれたり放り投げられたりする反事実的な可能性もまた了解していなければならない。


 こうした反事実的な了解は分節化された言語をもたない動物はもちえない。しかし動物は獲物を追跡することはできる。ただしこれは分節化とは区別せねばならない。獲物は状況に埋め込まれており、状況から切り離された自律的な対象ではない。あえて表現すれば、非言語的な場の中で特定の刺激パターンに反応していると言ってよい。対象を分節化する以前の刺激―反応構造の中で追跡は捉えられるだろう。


 動物は対象を概念レベルで捉えてはいないが、特定の対象に対して識別的に反応することはできる。おもちゃを咥えて持ってくる遊びを繰り返す猫はそのおもちゃを複眼的にとらえていると言ってよいのではないか。


 言語をもたない動物は、現実の中だけであれ変化する視点の中で同一の対象に対して識別的に反応することはできる。つまり、複眼的構造は反事実的な可能性まで要求しなくとも、現実の中だけでも持ちうるのだ。


 そうであれば、知覚の本質は複眼的構造にあるということと、動物や赤ん坊が知覚をもつということは矛盾しない。

 

 

<読書メモ
 児童のかんしゃくや暴力などの問題行動の対処法として一般に感情の制御や言語化が論じられている。感情は視覚や聴覚よりも複雑だが、意識されないものとされたもの、概念化(分節による言語化)されないものとされたものに分けることができることから知覚や感覚に近いものだと思われる。
 また、感情制御の重要性は児童に限ったことではない。言葉を習得した大人でも大きな意味を持つ。
 これらを踏まえて「感情」を本章に沿って整理し直してみた。


 知覚と感覚の違いは複眼的構造を持つか持たないかだ。本章の獲物を追う動物の例によると、分節化しなくとも知覚は存在するがそれは単なる状況に対する反応でしかない。嫌な気分になったら暴力的にふるまうとか逃げるといった単純な反応だ。
 これに対して感情が分節化されたらどうなるだろう。コーヒーカップの例のように反事実的な可能性を伴うものとして言語化されたらどうなるか。
例えば嫌な事を言われ、釈然としない状況があったとする。これを分節化するということは、その人の言葉や行動やその人と自分を取り巻く社会的状況に関して様々な反事実的可能性を考えてみることであり、自分の今後の言動についても様々な可能性を考えてみることだ。そして様々なケースにおいて自分の感情にどのような差異が生じるのかを一つ一つ検証するのだ。これらの作業は当然ながら言語化が必要だ。

 

 読書の効用も実はここにあるのかもしれない。小説には極めて繊細で微妙な心の動きが描かれることがある。これが自分の中に少しずつストックされるのだ。映画やドラマも同じだが演技という非言語的表現が半分を占めるため、言語による感情の概念化という面では読書に勝るものはないだろう。朗読を聞くことも、読み直しが難しいという点はあるものの同じような効果が期待される。
 感情の言語化の事例を多く知っており、且つそれらを自分の感情の言語化に応用できる人ほど強くしなやかだ。逆に言語化が為されない場合は、動物と同じく一つの状況に特定の反応しか現れない。嫌な事を言われた時に殴るか考えないようにするかという選択肢しか無い状況はあまりにも悲しい。


 読書は生きるための武器だ。>

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷