作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第20章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は20章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P341
【過去自体】
 過去の出来事について二人の記憶が食い違うことに関し、野家啓一氏は次のように主張する。

 

 「過去の事実は一つしかないのでどちらかが記憶違いをしているという思いは間違いではない。しかし、記憶違いを正す唯一無二の『過去自体』がどこかに存在すると考えるならば、大きな哲学的誤りを犯すことになる。それはカントの『もの自体』と同様に、少なくとも認識論的にはいかなる理解可能な意味も持つことはできないからだ。」

 

 著者も「過去自体」は存在すると考えるが、野家氏と著者の「過去自体」の意味は異なる。

 

【思い出すことと過去を語ること】
 野家氏の議論は大森荘蔵の議論を引き継いだものだ。野家氏は歴史を物語ることに視線を向け、大森は想起という体験のありかたを捉えようとする。著者の関心も想起にある。しばらく大森の議論を追っていくことにする。

 

 思い出すとはどういうことか。思い出すことは単なる想像ではないとすれば、想像と異なる特徴すなわち想起に特有な特徴が何かあるのだろうか。

 

 ラッセルなら「なじみの感じ」とか「過ぎ去った感じ」というだろう。しかしそれらは想像の中にもある。

 

 それに対し大森は、そうしたイメージそれ自身にはいかなる過去性のしるしもないと指摘する。イメージが過去のものになるのは、例えば「誰もいなかった」のようにイメージを過去形で語るからだ。かくして大森は想起を言語的なものと捉える。想起の本質はイメージを思い描くことではなく、過去を語ることにあるというのだ。

 

【早期を過去自体と比較することはできない】
 想起と想像を区別するのは、想像の語りが偽でもかまわないのに対して、想起の語りは真であるとされるべき点にある。偽な想起は訂正されるか撤回されねばならない。


 想起を過去の事実の写しのように考えるのであれば、そのとき、想起の真偽は想起と過去の事実との比較によって決定されることになる。ただし過去に戻ることはできないので、想起と体験の比較は不可能である。


 実際にどのように想起の真偽が決められるか考えよう。われわれに与えられているのは現在のことがらだけだ。他人の記憶、日記や手帳、物的証拠、正しいと認めている知識(世界のあり方、自然法則等)。そしてあるひとつの想起は、それを取り巻くこうしたもろもろのことがらとの整合性によって真偽が決定される。もちろん単純ではないだろうが、このやり方しかなく、多くの想起はこのやり方で実際に真とされている。


 大森は、こうした整合性のチェックをわれわれの社会的制度と考え、それによって確立される真理性を「制度的真理概念」と呼ぶ。

 

 「この真理概念によって真理とされる過去命題を系統的に接続すれば一つの物語ができあがる。この物語こそ、われわれが想起による過去と呼ぶものにほかならない。過去とは過去物語なのである。」(「物語としての過去」『大森荘蔵著作集』第九巻『時は流れず』、岩波書店、15ページ)

 

 大森もまた、野家と同様、過去物語と独立な過去世界を「過去自体」と呼び、その想定を拒否する。過去世界は過去物語と独立なものではありえず、われわれの社会制度を背景とした過去物語によって構成されるというのである。

 

【過去の独立性】
 著者はこうした議論の殆どに賛成する。想起の真偽を過去の事実との比較によって決定することは不可能である。それゆえ、整合性のチェックは想起の真偽にとって重要になる。著者は整合性のチェックを過大評価すべきではないと考えるが、それは大森や野家の議論の大枠を崩すものではなく、「制度的真理概念」を実情に即した形で仕上げる必要があるというにすぎない。


 問題は、「過去世界は想起と独立ではない」の意味にある。


 大森の議論はこうだ。過去世界は過去物語によって作られることを認めたとしても、そこから過去世界が過去物語に等しいことは出てこない。大森は過去世界の作り方は述べたが、作られたものが何であるのかは別の話だ。


 ここで「過去物語によって作られる」の「によって」に注目する。「によって」は構成要素、方法、作り手など複数の意味があり混同してはならない。「シチューは太郎によって作られた」としてもシチューの構成要素が太郎というわけではない。過去世界すなわち過去物語とは言えないのだ。

 

 実感に従うならば、過去は思い出そうが出すまいが、それと独立に存在する。著者はこの実感を保持したいという。同時に大森や野家が言うような、過去世界は過去物語によって作られるという論点も掬い取りたいという。つまり過去世界は過去物語によって、過去物語とは独立なものとして作られる。だが、それを明確にするのは難しい。

 

【非言語的な過去と身体的記憶】
 著者は、言語的に分節化された世界は非言語的な体験の海に浮かぶちっぽけな島にすぎないと述べた。それに加えて過去における非言語的体験を「過去自体」と呼ぶ。

 

(ただし大森や野家の言うそれは言語的に分節化された過去世界だが、著者の言うそれは非言語的である。カントの言う物自体に近い意味で著者は過去自体という言葉を使うのだと述べている。)

 

 たとえば、体験による多くのことは言語的に分節化して捉えられるが、同時に圧倒的に豊かな非言語的体験に晒されてもいる。それはさまざまな形で(私に)影響を与える。著者は、非言語的な分節化されていない体験は原因として特定できないので、(この影響のことを)「因果」ではなくカントに倣って「触発」と呼ぶ。


 過去の非言語的イメージすなわち「過去自体」が(現在の私を)触発して非言語的イメージが(私に)現れるのだ。


 一般に自転車の乗り方や文章の書き方は想起と区別される。野家はこれを「身体的記憶」と呼ぶ。想起と身体的記憶の違いは、過去への志向性をもつかどうかにある。想起は過去についてのものだが、身体的記憶は過去についてのものではない。


 ベルクソンラッセルや大森氏、野家氏は身体的記憶を軽視した。しかし著者はこれに異を唱える。著者は非言語的な身体的記憶が無ければ言語的な想起も成り立たないと考えた。

 

【過去物語を触発する】
 過去について語ることは、過去自体に触発された身体反応だ。その意味で言語的な想起は身体的記憶の一種と言える。


 だが言語的な身体反応は事態を決定的に変化させる。「蝉が鳴いていた」という言語的な分節化は言語習得によって身についた身体反応であるが、同時に日本語の文でもある。それは、日本語によって開かれる論理空間内に「蝉が鳴いていた」という事態を指定することになる。こうして「蝉が鳴いていた」という過去物語によって非言語的な体験の場としての過去自体は、過去物語によって言語的に分節化された過去世界になるのだ。その意味では分節化された過去世界は現在の過去物語によって作られているといえる。


 しかし過去世界は過去物語ではない。(ここで重要なことは、)分節化された過去世界は過去物語の原因として作られるということだ。(分節化によって)触発は因果として捉えられる。いま「蝉が鳴いていた」と物語ることは、蝉が鳴いていた出来事に因果的に引き起こされたものとされる。つまり過去物語によって作られた過去世界はその過去物語を引き起こした原因なのだ。


 そして、原因と結果は同じものではないし、原因と結果の関係は必然的なものではない。かりに過去物語という結果に結びつかなかったとしても、その原因となった過去世界は存在する。


 著者は(非言語的)体験を、著者が物語る過去世界から独立するものとして語り出す。


 過去自体を「物語としての過去」に対して「語らせる過去」と呼ぶ。ここでも「語らせる過去」は「語られた過去」よりもはるかに豊かだ。語らせる力を持った過去が語られなかったとしても、それを「語られないがゆえに存在しない」と言うことはできない。

 


<読書メモ:
 「因果は人が作る」。この言い回しは哲学的思考に慣れない人にとっては奇異に感じるだろう。自然科学に造詣の深い人ほど違和感を感じるかもしれない。しかしそう考えることによって色々なことが説明できることも否めない。


 非言語的体験は何も自然現象にだけあるわけではない。人との関わりにおいても非言語的体験は多分に存在する。ボディランゲージと呼ばれるものからちょっとした表情や目線、間のとり方、文化的慣習に基づく反応の予想と答え合わせなど多岐にわたり、おそらくすべてひっきりなしに感覚されるものだ。


 非言語的体験が分節化されて言語化され、抽出された言語だけが流通するパターンの一つとして「噂」がある。噂は他人による想起と因果の発信だが、何人かを介するうちに発信者と異なる想起と因果が加味され、それぞれの真偽判定が加わってどんどん変形していく。噂を聞いた人にとっては噂を触発した過去物語は直接の非言語的体験として存在しないので、真偽の判定は非常に難しくなる。より近いソースとしての噂の当人に直接会って確認するまでは、真偽の判定を棚上げした方が良いことが結構あるのだ。


 「噂」は卑近な例として出したが、大きく捉えるならば「因果は人が作る」という部分に異文化理解、他者理解、最終的には自己理解の鍵があるという気がする。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷