作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第20章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は20章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P350 
【1 過去整合説】
 整合性のチェックだけが過去命題の検証手段であるという考え方を過去整合説と呼ぶ。これは一面では不十分であり、一面では過剰である。


 現在まで真とみなされた過去命題の集合をAとする。そこにAとの整合性が無い新たな過去命題pが付加されたとする。そのとき我々は整合性を回復するよう修正を施す。しかし、過去整合説は「整合性が回復されたならば、その整合的な集合に属する過去命題は真だ」と述べるだけで、どのように整合性を回復したのか、あるいはどのように整合性を回復すべきなのかについては何も述べていない。これが過去整合説の不十分さのひとつだ。


 また、過去整合説だけで考えるならば、かなり突拍子もない修正も可能となる。過去命題aとbが不整合を起こしているならば、aを真としてbを偽とするか、aを偽としてbを真とするか、aもbも偽とするかの3つの選択肢がある。過去整合説はその3つを均等に扱うしかない。bが荒唐無稽であっても排除できない。この点も過去整合説は不十分だ。


 過去整合説が過剰だという説明は以下のとおり。例えば我々はさっきコーヒーを飲んだという記憶にいちいち整合性のチェックを施さない。さらにはそれを明示的に思い出さないことさえある。例えば次の授業の準備をする際、前回の授業内容を暗黙裡に踏まえている。こうして明示的にせよ暗黙のうちにせよ、(我々は)過去のことがらを鵜呑みにして生活している。


 もし諸命題の整合性を論理的な可能性すべてを均等に考えるならば、すなわち論理空間上で考えるならば、我々は身動きができなくなる。よって我々は行為空間の中で、荒唐無稽な可能性を無視して明晰な記憶を無条件で信頼することにより、(整合性を)考えねばならない。


 行為空間の中で過去命題を検証するなら、整合性のチェックは行為・実践との関係から捉えなおさねばならない。それはプラグマティズムの真理観に近いものとなるだろう。


【2 歴史的過去の過去自体】
 著者が過去自体と呼ぶものは、今のところ直接体験した範囲にとどまる。そこで我々の記憶を超えた過去をとりあえず「歴史的過去」と呼ぶことにする。歴史的過去の過去自体についてはどう考えればよいのだろうか。


 歴史的過去は想起的にではなく史料に基づいて探求される。その史料の元が作者本人のものであれ伝聞や史料を参照されたものであれ、必ず誰かの記憶に行き着く。史料はかつての触発の残響だ。よってその史料もまた非言語的な過去自体に取り巻かれていると考えるべきだろう。


 われわれが史料にかつての触発の残響を聴き取るのは、史料を言語的に読み取るからでしかない。言語が無ければ過去は体験の範囲を超えることはない。言語を持たぬ動物たちは歴史意識をもち得ない。


 われわれは歴史的過去を語る。過去を物語ることによって体験の範囲を超えた過去が開ける。ここで改めて過去は史料に基づいて語られなければならない。単純化して言うならば、平安時代に書かれた日記を読む時、われわれは書かれたことから平安時代の物語を組み立てる。しかし同時に平安時代に書いたという著者自身もその物語に投げ返される。すなわち著者を触発し非言語的な体験たる過去自体を想定する。


 こうして史料は過去物語を開き、その物語の内に自らを位置付けることによって、その過去物語を取り巻く圧倒的に豊かな過去自体を横たわらせる。
 

【3 身体的記憶と言語的記憶】
 ここで身体的記憶と言語的記憶の関係について補足する。


 過去のできごとを思い出すことは「想起」と呼ぶ。これに対して自転車の乗り方を覚えていることを「身体的記憶」と呼ぶ。身体的記憶のポイントは、想起と異なり、過去への指向性が見出されないことにある。想起と身体的記憶をあわせて「記憶」と総称する。「思い出す」という語は「想起」を、「覚えている」という語は記憶一般を表す。


 想起と身体的記憶は過去への指向性をもつかどうかで区別されるが、言語的記憶と非言語的記憶の区別に重なるわけではない。


 想起のポイントである過去への指向性は言語使用によってのみ生じる。過去形を用いた言語使用だけが過去世界を過去として開くことから、想起は必ず言語的な部分を含まねばならない。


 しかし、想起されることのすべてが言語的である必要はない。例えば昨夜の演奏会の演奏を思い出すとき、言語的に思い出すだけではなくその雰囲気を非言語的に思い出す。(想起は非言語的なものを含んでもよい。)


 一方で「身体的記憶はすべて非言語的」だとも言い切れない。過去の境内での非言語的体験を著者は過去形という言語的なもので表現するが、それらはすべて過去自体に触発された身体反応である。「境内には誰もいなかった」という音の組合せを発することは身体的記憶であり、かつ言語使用であるため過去への志向性が生じ、想起にもなる。想起の基盤には非志向的な身体的記憶がなければならない。


 とはいえ、まったく非志向であれば「記憶」とも呼べない。例えば、運動神経の良い人が未経験の一輪車に乗れることと、練習した著者が自転車に乗れることを比べた場合、後者のみが身体的記憶だと言える。違いは過去に練習をしたかどうかだ。「自転車の乗り方を覚えている」とは「おそらくは練習したが今はそのことをもう忘れているのだろう」と考えることだ。しかしこの身体的記憶は過去の練習を言語的に思い出すことで正当化される。


 つまり身体的記憶が記憶であるためには言語的な想起を必要とする。身体的記憶はそれ自体では過去への志向性を持たない。それゆえ身体的記憶を過去へと結びつけるものは言語的な想起以外にない。


 かくして、ここに興味深い構造が確認される。言語的な想起は身体的記憶を基盤として必要とするが、身体的記憶を記憶たらしめるには言語的な想起が必要となる。言い換えると、――言語的な想起という能力は身体的記憶が支え、「身体的記憶」という概念は言語的な想起が支える。


 これは過去自体と過去物語の関係だ。過去物語は過去自体に触発されて成立するが、過去自体を「過去」自体とするものは過去物語なのだ。


<読書メモ
 a)物における「物自体」、b)物自体に触発される非言語的体験、c)そこから分節化された言語。
a’)過去における「過去自体」、b‘)過去自体に触発された身体的記憶、c’)そこから分節化された言語による過去物語。
 a“)私における「私自体」、b“)私自体に触発された非言語的な私が私であるという統一感、c“)そこから分節化された私物語。
a”~c“が本書に書かれているかどうかは定かではないが、おそらく同じ構造で説明することが可能だと予想される。

 そもそも非言語的体験を分節化し言語化するのは常に「私」だ。言語的記憶から豊かな過去自体を蘇らせるのも「私」だ。他人の助けを借りなければどこにも辿り着けないが、辿り着く主体はいつも「私」だ。

 しかしそこには必ず嘘が隠れていそうだ。私は私自体から私物語を紡ぐとき、私の都合で何かを書き換えていることを認識できるのだろうか。>


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷