「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その5)
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章の註に関する。
以下、本文抜粋。
P334
【2 痛みという語の習得過程】
「イタイ」という発声と泣くことの関係について『哲学探究』から引用する。
<『哲学探究』引用はじめ> 語はいかにして感覚と関係づけられ、その結合は確立されるのか。人は感覚の名の意味をいかにして習得するのか。一つの可能性は、言葉が原初的で自然の感覚の表出に結び付けられその代わりとなること。
大人は子供にイタイという発声を教え、後に文を教える。大人は子供に新しい痛みのふるまいを教えるのだ。
痛いという語は泣き叫ぶことを記述しているのではない。痛みの言語表現が泣き叫ぶことにとって代わっているのだ。<引用終わり>※
※引用部分もブログ作者が主観で意訳
この部分の解釈としては、感覚に対する一人称現在の発話「私はおなかが痛い」は自分の腹痛の記述ではなく呻き声などの自然な身体的表出に類するとするものだ。これは「表出説」と呼べる。
しかし著者はこの表出説の立場はとらない。「おなかが痛い」はあくまでも腹痛の感覚記述に用いられると考える。
ウィトゲンシュタインは表出説をとっていると結論するのは慎重にならねばならない。ウィトゲンシュタインは最初、『論理哲学論考』において「世界の象としての言語」すなわち言葉を記述のためのものとして捉える見方をしていた。しかし、後年の『哲学探究』では、言葉を記述のためのものという考えをウィトゲンシュタインは変えている。この考えの変化に関して表出説は魅力的かつ重要である。
ウィトゲンシュタインの通例として、とりあえずそれで行けるところまで行ってみようという態度がある。従ってここではウィトゲンシュタインが最終的に表出説をとったかどうかは保留しておく。
先の引例を読み返すと、これは決して表出説を主張し支持するものではない。著者は引例の主張を著者の考えに組み込めるとしている。
問題はわれわれが痛みという語をどうやって習得するかだ。ウィトゲンシュタインは一つの可能性として「新しい痛みのふるまい」として泣き叫ぶ代わりにイタイという発声を教えることを挙げている。
しかし著者は原初的感覚の語と場合、これは「一つの可能性」ではなく「唯一の可能性」になる。
「痛がゆい」のような複合的な感覚語ではまた別の習得過程が考えられるが、「イタイ」といった原初的感覚語の場合はそれが新たな身体反応となるように訓練するしかない。
「痛い」を習得するストーリーを素描してみる。(過度に単純化されたストーリーは虚構だが、一つの見方をわれわれに与える。)
「痛い」を教わる前の子供はなんらかの非言語的体験はもっている。それは大人から見て特徴的な状況と特徴的な身体反応を示す。ひざを擦りむいて泣き叫ぶ子に大人は「イタイ」の発声を教える。これは条件付け訓練と同じだ。泣き叫ぶことにならぶ新しい痛みのふるまいを仕込むのだ。
次に「イタイ」という発声を利用して子供を「痛み」という日本語の言語ゲームに巻き込む。そして子供は「イタイ」という発声がなぐさめや手当を求めるアピールになることを学ぶ。やがて否定形や過去形、一人称以外の使用を学び、嘘も学ぶ。かくして「痛み」という語を用いた文の真偽への関心が芽生え、子供は感覚記述の言語ゲームに参加する。これが習得過程である。
先に示した『哲学探究』の引例はこの習得過程の出だしの段階を示唆したものと読める。したがって(この引例は「表出説」の妥当性を問うような)われわれの言語ゲームの記述ではないが、言語ゲームに接続することは可能だ。
<読書メモ:
痛みの感覚と痛みという語が結びつくのは訓練による習得だと著者は言う。確かに私は、もうこの結びつきを分離することができない。発声を教わり、ふるまいを教わり、泣き声やうめき声にとって代わる。
これは子供に限ったことではない。大人も日々教育されているのだ。最近の例では「ヤバい」という語だ。「危機的状況」を示す元の意味に加えて「卓越性」が混ざり、適用の拡張が行われたのはここ2、30年くらいだろう。
ともかく私は「ヤバい」を感覚的なレベルで理解し使用することができる。「ヤバい」を習得する訓練を私は行ってきたのだ。>