作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第18章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は18章に関する。

 以下、本文抜粋。

 

P300

【私的言語】

 私にしか理解できない言語は「私的言語」と呼ばれるが、本章で筆者は「私的言語」を否定する。

 

 仮に私的言語を可能だと主張する人がいたとして、その人にはある種独特な「E」という体験が繰り返し起こるとする。「E」は他人には分からないのでそれは私的言語だという主張になる。

 

 あるいはその人は「痛み」という日本語も同様に私的言語だと言うかもしれない。「痛み」は他人には分かりようもないからだ。

 

 かくして体験を記述した言葉はすべて私的言語ということになる。更に「すべては自分の体験に基づいて理解されるしかない」という前提が加われば、あらゆる言葉は私的言語だということになる。一般に唯我論傾向をもつ人はこの主張をする傾向にある。

 

P301

ウィトゲンシュタインの私的言語批判】

 ウィトゲンシュタインも私的言語を否定し、クリプキがその解釈を提示した。しかしここでクリプキと著者の観点は異なることを述べておく。

 

 クリプキウィトゲンシュタインの私的言語批判を規則のパラドクスからの帰結であるとし「プラスとクワスを区別するような私に関する事実など存在しない」と結論する。

 

 プラスとクワスを区分するものは共同体のもとにある。プラスまたはクワスを決定するには共同体の一致が必要であり私一人では成り立たない。これがクリプキの「共同体見解」である。

 

 他方、著者が規則のパラドクスから引き出す教訓は共同体見解ではない。著者は規則のパラドクスの核心が言語実践を支える「語られない自然」の発見にあると見ている。プラスとクワスを分かつものは自然の反応傾向といった自然(ウィトゲンシュタインの言い方では「自然誌的事実」)の内にしかない。

 

 しかし、われわれが68+57を125と答え、5と答えないことは「自然誌的事実」ではなく、規範に従って125と答えるべきとしていると語られねばならない。著者はこれを前回「語られない自然」と呼んだ。これが『論理哲学論考』で見逃された『哲学探究』の新しい地平である。

 

 著者はここで、ウィトゲンシュタインが次に取り掛からねばならなかった問題が「語られない自然」と「語ること」の関係だったと推論する。

 

 自然誌的な秩序に服し自然な反応に身を任せるだけなら私一人で十分だろう。だが言語実践において社会や制度は本質であるに違いない。ウィトゲンシュタインは規則のパラドクスにおいて言語実践を支える自然を見出したが、(個人から社会に踏み出すために)私一人が自然誌的秩序に服するとはどういったことかを考えて私的言語という思考実験に取り掛かったのではないか。

 

<読書メモ>

 ここで著者の「相貌」を改めて読み直してみると「相貌」にとって個人的な人生観は重要な要素になっている。おそらく「相貌」は自然誌的秩序に加わるべき軸であり、時間の経過を加味して言語実践を立体的に浮かび上がらせる。「相貌」の要素である個人の人生観は私的体験により形成されるが、それが真偽の批判に晒されることのない私的言語になってしまうと言語実践から遠ざかるのだろう。

            

P304

【私的言語〈E〉の想定】

 私的言語の不可能性を示すため、私的言語〈E〉を規定しよう。

 例えば、特徴的な外的な条件やそれによって生じる身体反応も生じない経験が私以外の誰にも知られず起き、それを「E」と名付ける。「E」は日記に書くことができ、今「E」が起きていると他人に伝えることはできるが、他人には説明できない。これを「私的言語〈E〉」と呼ぶ。

 

P305

【正しいことを正しいと思うこと】

 一見すると、私は「E」の使用規則に従って「E」を定めている。しかしこれは「私的に」規則に従っているということだ。つまり私は「規則に従っていると思う」とこと「本当に規則に従っている」ことを区別できない。

 

 私的言語ではない「浅葱色」を例に挙げると、私が日本語規則に従ってこの色を浅葱色だと判断した場合であっても、色辞典などを調べることによって訂正する可能性がある。しかし、「E」の場合はそれを訂正する他人も公共な道具も存在しない。従って「規則に従っていると思う」ことと「本当に規則に従っている」ことの区別はつかないのである。

 

 区別がつかないとどうなるのか。孤島で一人生きるロビンソンが「魚は食べてはいけない」という規則を決めていると想定しよう。ところが彼はアイナメを釣り上げて食べたとする。第三者はロビンソンが規則を破ったと思うかもしれないが、ロビンソン自身 が規則に従っていると思っているなら誰も文句は言えない。ロビンソンはアイナメがタコの化けたものだと思っているのかもしれない。つまり規則は骨抜きになるのだ。

 

P307

【「E」は何も記述していない】

 私が日記に「E」と書きつけたとしても、それは何も記述していない。もし「E」が体験記述の言葉ならばそこには「真偽」があることになる。ところが「E」には真偽がない。

 

 公共言語の場合、自然な発話であっても勘違いや知識不足のために後から偽であることが判明することがある。しかし私的言語の場合自然な発話は自動的に真となり、不自然な発話は自動的に偽となる。そこには誤解を言い立てる他者の視点は存在しない。つまり真偽は意味を為さない。真偽がないならば公共言語における実体はないし、記述とは言えない。

 

 「E」という記載からわかることは「このとき私は自然に「E」と反応したんだな」ということだけであり、そのときどういう体験が起こったのかを読み取ることはできない。私的言語が他者を完全に排除してしまったことの帰結である。私にしか理解できない言葉は私にも理解できないのである。

 

 

<読書メモ>

 形而上の言語は誰にも体験できないが、多くの人がその概念を共有している。それらは体験できないし、仮に体験できたとしてもそれは極めて個人的な体験である。他者による検証は難しく、真偽の判定も同様に難しい。かといって他者を排除しているわけではない。概念だけは共有されているからだ。

 

 形而上の言語はまるで何かの境界線上にあるみたいだ。私的言語領域を注意深く排除することで形而上の言語を浮かび上がらせることは可能なのだろうか。

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷