作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第17章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は17章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P292
【2 言語習得と条件付け】
 言語を教える過程は訓練と同じだ。言語学習がパブロフの犬と違うところは、教えられていなかった新しい文を作り、また新しい文を理解するという特徴にある。この特徴は言語の「創造性」と呼ばれる。


 著者自身の中でも、言語習得はたんなる条件付けだという考えと(「創造性」という観点から)そうではないという二つの考えはいまだに衝突している。


 しかしここでは言語習得は条件付けと同じだという考え方を進めていく。そのためには「創造性」の二つのことを区別しておく必要がある。


 一つは、同一の言語の中で新しい文が作られるということ。もう一つは言語そのものが新しいものに改変されうるということだ。

 

 前者は「百匹の狸が銀杏並木を駆け抜けた」といった内容が新しい文だ。
 後者は「夜の底が白くなった」という文学的表現のもつ新しさだ。一般的な日本語では夜は底をもたない。これは文学的表現に限らず新しいメタファー一般に言える。新しいメタファーが流通するようになれば、それは日本語の枠そのものを拡張することになる。

 

 後者の創造性は教えられうるものではないが、前者の創造性は習得可能である。前者を「習得可能な創造性」と呼ぶことにする。


 「習得可能な創造性」は条件付けでも身につく。例えば数字の羅列で大きな数を表現する場合、例えそれが人類史上初めて書き出された数であっても「以下同様」の範囲に収まっている。


 言語習得も「以下同様」の範囲であり、「以下同様」とはわれわれの自然な反応傾向を利用した促しである。つまり「以下同様」とは条件付けが完了したということである。


 「条件付けでは、われわれの言語表現がこんなに多様であることを説明できないのでは」という反論に対しては、われわれは語り方を身につけその語り方を使って自由な内容を語るのだと答えたい。

 

 さてここで「言語を教える過程は条件付けによる訓練とまったく同じなのだ」と言ってみる。まったく同じと言い切ることは何か大事なものを落としていると筆者は感じるが、まだ筆者自身それが何なのかは分かっていないという。しかし少なくとも言語習得には「以下同様」が必要であることと、「以下同様」はわれわれの自然な反応傾向を利用してのみ有効であることは主張できる。

 

P296 
【3 規範的力】
 われわれがなんらかの規範に従った行動をとるときには“つねに”規範的な力が働いていると考えてしまうかもしれない。例えば線に従って歩くときはつねに線を注視しなければならない。しかし言語を使うときは必ずしもつねに規範を意識しているわけではない。

 ここでの規範的な力とは、まちがったり迷ったりしたときに現れる分岐ポイントの衝立のようなものだと言える。


 更には規範とは、行動する者の観点だけではなく、評価の観点という二重の観点が含まれる。

 


<読書メモ>
 言語の習得が完了したということは、新しい場面で「以下同様」の範疇に入る言語を使用できる能力を得たことだと言える。そこに至るまではつねに規範を意識しなければならならず、同時に評価の観点がつきまとう。
 習得が完了し、評価の観点を意識しなくても良くなったときにはじめて習得不可能な新しいメタファーの創造が現れ得るということだろうか。

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷