作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第18章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は18章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

P310
【1 私的言語から公共言語への転回点】
 私的言語〈E〉は私的体験を記述してはいないが、「痛み」のような公共言語の言葉は感覚を記述できる。それでは〈E〉と「痛み」の違いは何か。


 痛みには特徴的な状況と特徴的な身体反応がある。他方、私的言語〈E〉はそのような状況や身体反応を除去することから成り立っていた。では、特徴的な状況や身体反応を取り戻せば私的言語〈E〉は公共言語に返り咲くのか。ここで著者はそうではないと考える。


 ウィトゲンシュタインは『哲学探求』270節で私的言語に身体反応を付加することを試みている。〈E〉に連動して血圧が上昇するこの言語を〈E1〉とする。しかしまだ〈E1〉は公共言語ではない。


 なぜなら例えば〈E1〉を体験したが血圧が上昇しなかった場合、「E1が起こったが血圧は上昇しなかった」とは書くことはできない。血圧との連動を離れると〈E1〉は〈E〉の想定に戻らねばならない。私的言語〈E〉は真偽を言えないのであるから、〈E1〉と血圧の上昇との連動には例外はない。〈E1〉が真であるのは血圧が上昇するときだけだ。〈E1〉は単に血圧上昇の予測として真偽が与えられているにすぎない。ならば、〈E1〉はなんらかの体験の記述ではなく単に「血圧が上昇する」を意味するものと言わねばならない。


 では、〈E〉が感覚記述の言葉となるには、さらに何が必要か。


 著者の考えでは「嘘」や「ふり」や「がまん」といったことが鍵になる。これらを概念化して「嘘をついている」と記述することが要求される。ここで痛みに対する「嘘」や「ふり」は、痛みはないが身体反応だけを示すことを含み、逆に「がまん」は身体反応に現れない痛みということを含んでいる。


 重要なことは、嘘やふりやがまんが、感覚や身体反応と「痛い」が完全に連動しておらずその間に切れ目が入っているということだ。


 もちろん典型的には感覚や身体反応と「痛い」は連動している。しかし例外的には切り離されうる。このことが「痛い」という語を感覚記述に用いることを可能にしているのだ。


 私的言語〈E〉が「痛み」のような感覚記述の公共言語になる転回点は、たんに「Eが起こった」と記述するだけではなく「Eのふりをする」や「Eをがまんする」といった記述にも使用されうるようになることにある。

 

P314
【2 「感覚E」という語】
 私的言語にきわめて近い「感覚E」という語について考える。


 「感覚E」はまったく新しい感覚であり、状況や身体反応との連動が認められるものの、「感覚E」を他の緒感覚から区別するような特徴的な状況や身体反応は見出されないとしよう。さて、これは私的言語なのだろうか?


 しそれが他の感覚と区別する特徴的な状況や身体反応を欠いていたとしても「感覚E」は私的言語ではないと著者は考える。


 まず、「感覚E」の想定は私的言語〈E〉の想定とは異なる。実はウィトゲンシュタインは当初、私的言語を「感覚」という言葉を用いて導入している。だがこれはウィトゲンシュタイン自身によって、感覚とは公共言語であり私だけが理解できる言語ではない、と修正される。


 著者自身もある種の「体験」を「E」と名付けるという形で私的言語を導入した。だが、それは「体験」という公共言語を用いているという理由から間違いだった。いっさいの公共言語と隔絶されたところで何ごとかに「E」と名付けることが私的言語の想定である。これに対し「感覚E」は公共言語たる「感覚」に依拠して導入されるので私的言語ではない。


 では、公共言語の「感覚」という語を用いていることがどうしてそれを私的言語の想定と決定的に異なったものにするのか、検討していこう。


 他の感覚と同様、「痛み」には典型的なケースとそうでないケースがある。金槌で指を叩くといった典型的なケースでは誰もが痛いと見なされうる特徴的な状況において痛みが生じ、(顔をしかめ、指が腫れるといった)誰が見ても痛そうに見える特徴的な身体反応が現れる。「誰でも」の構造は決定的に重要であり、この構造があるからわれわれは「痛み」を共有できる。逆に、そのような特徴的な状況や身体反応が伴わなければわれわれは「痛み」という語を学ばなかったに違いない。


 だがそれは典型的なケースおける話であり、「痛み」のすべてが特徴的な状況や身体反応を伴うわけではない。「痛み」は典型的なケースから、特徴的な状況を欠くかあるいは身体反応を伴わないような周縁的なケースに至るまでの連続的な移行をもつ。


 一般に、ある概念が使用される周縁的なケースでは、正しい概念使用は明確ではなくなってくる。恋愛などがその例である。いわば、概念とは境界のはっきりしない町のようなものであり、町外れに差しかかるとその概念使用について心細くなってくる。「感覚E」もまた、そのような町外れの語にほかならない。


 感覚Eは他の緒感覚と区別するような特徴的な状況も身体反応ももたない。感覚Eとは何かと他人に問われて明確な答えは返せないとしても、感覚Eに関する質疑は意味の分からない会話でもない。感覚概念の町外れではこのような会話があってもよい。


 だがそれは町外れだから可能なのだ。このような周縁的な言語使用は典型的な言語使用に支えられてのみ可能となる。「痛み」のようにまず典型的な場面で作られた概念が、その後で周縁的なケースに適用されるのである。


 そうした観点から見れば「感覚E」と私的言語〈E〉の違いは明らかだ。「感覚E」は公共言語の感覚概念に依拠し、あくまでもその周縁的使用として導入される。他方、私的言語〈E〉はいっさいの特徴的状況と身体反応をもたないケースこそがまさしく適用例とされる。私的言語〈E〉は公共言語の周縁に位置するものではなく、公共言語から完全に隔絶された私的孤島なのだ。


 それは、概念の成立基盤を破壊しきった土地に概念を打ち立てようとする不可能な幻想にすぎない。


<読書メモ>
 感覚Eの例えとして、「霊感」について考えてみた。
 真偽は別として、霊感を確信している人はいる。また、「嘘」、「ふり」、「がまん」といった記述も適用できる。
 しかし、霊感を確信できる人はごく一部だ。一般人は霊感を確信することができないので、それがどんな感覚なのかを知ることはできない。つまり感覚そのものは共有されない。
 身体反応についても、「霊を感じたら寒気がするよね」みたいなことは言われるが、典型的なものとして認知されているわけではない。
 特徴的な状況としては、お墓や心霊スポットと呼ばれる特定の場所と夜という時間帯が挙げられることが多いが、「金槌で指を叩いたら痛い」と比べたら、典型的な例とする程度に決定的ではない。
 「霊感」については周縁例の方が一般的だ。と言うよりはむしろ「霊感」には典型例がないのだ。
 ではなぜ「霊感」が共通言語になり得るのか。それは、永遠の魂や神仏といった霊的なものの概念が広く共有されているからだと思われる。「霊感」に限らず、文化的な概念が感覚を形成することはかなり多いのではないだろうか。
 「恋愛」もその類だと思う。ただし恋愛については感覚を二人で共有する場合が多いので、「霊感」と比べたら町の中心は賑わっていそうだ。


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷