作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第17章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は17章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P281
【「したいこと」と「すべきこと」】
 緑色を見て「緑」と呼ぶべきだから呼んでいるのか、たんに「緑」と呼びたくなったから呼ぶのはとどこが違うのか。


 日本語を使うことは日本語の規則に従い語彙を適切に組み合わせて用いるという規範的な営みである。自分が使いたいように言葉を使っても誰にも理解されない。しかしここには錯綜した事情がある。


 キュウリを手にして「緑」だと言うときは、色に注目して「緑」呼びたくなっただけである。そこに「そうすべき」に対応するものはない。あるいは条件反射的に緑という言葉が出てきたとすれば、呼びたくさえなっていないということになる。

 

【「以下同様」における自然と規範】
 言葉を学ぶ過程は整然としたものではない。さまざまな具体例とともに言葉の使い方を教えられ、新しい事例にその言葉を適用していく。ここには「以下同様」の成立がカギとなる。


 ここで、グルー的解釈を行う子供は「以下同様」の概念が異なった働き方をする。その子供は、キュウリを緑と教えられた後にエメラルドを緑ではないと言い、快晴の空を緑だと言う。


 しかしわれわれはエメラルドを緑だとする反応しか取ることができない。ごく自然にそう思う。ごく自然にそう思うということは、そう呼びたくなったということだ。


 つまり「以下同様」とは自然の反応に任せることだが、「あとはやりたいようになりなさい」ではなく「以下、これと同様にやるべし」と言いたいのだ。

 

【誤解の訂正】
 鳥を教わる子供は、いかにも鳥らしい鳥を提示されて「鳥」という語が適用されるものとされないものの区別を教わり、以下同様となる。しかし子供はムササビを見て鳥と言い、ペンギンを見て鳥ではないと言うかもしれない。


 ただしこれはグルー的、クワス的反応ではない。ムササビを鳥だという子供はわれわれと異なる反応傾向を持っているわけではない。それはわれわれと同じ自然な反応、「自然な誤解」だ。


 誤解はすべて自然な誤解のことだと言うべきだ。グルー的、クワス的反応は誤解ではなく「われわれとはまったく異なる別の正解」だ。ある反応を誤解と評価し、訂正できるためには自然な反応傾向を共有していなければならない。同じ自然のもとにいる者のみが誤解しうるのだ。


 ダチョウを鳥だと教えられた子供は次にエミューを見てダチョウと誤解するだろう。更にクイドリを見た子供はこれがダチョウかエミューかはたまた鳥なのかを迷うかもしれない。


 ここには言語を教えることの一般的構造が示されている。言語使用は規範的だがその教育は相手の自然な反応傾向を利用して為される。しかしそこには誤解の余地があり、誤解が生じたときに反応傾向を修正する。そしてそれは終わりなく繰り返される。

 

<読書メモ:
 常に誤解を修正し続けるという点では言語の学習と科学の進歩は非常に似ている。たとえば、「科学万能主義に異を唱える」とか「科学では解明できないことがある」という言い方は、「言葉がすべてではない」とか「言葉では表現できないことがある」という言い方に近いものがある。

 言語も科学もわれわれの反応傾向の基盤の上に成立しているの規範的なものだとすると、どちらも常に誤解と修正の運命をまぬがれない。
 言葉と科学は世の中を動かす強大な力を持っている。それ故に絶対的な真理が隠れていると思いたい。しかしそれは願望だ。願望を願望だと直視するのは相当に難しい。>

 

【規範性の意味】
 以下同様はたんに「あとはやりたいようにやりなさい」だけではなく「適切であれば評価され、不適切ならば訂正される」ことを含む。これが規範的意味である。そして言葉を使われるときは自然な反応傾向に従って使われるのだが、それは適切/不適切という評価が下されうることを了解している。反応に迷ったり不適切であったりした場合、説明を受けることになる。


 もしその人の使う言葉から誤解や不適切さが消失したとすれば、そこに規範は不要となる。規範性の実質は誤解や不適切があるからこそ確保される。そして言語実践の規範性は訂正の場面に根差している。

 

【語られない自然】
 独り言で木々を「緑」とつぶやいたとして、それもまた評価と訂正の可能性に開かれている限り規範的な言語実践だ。


 「自然な反応に従っている」ということは「規範に従っている」という描写と相容れない。自然な反応に従うということは、喉が渇いたから水を飲むみたいなことだ。そこに「そうすべき」という意味はない。


 独り言を自然な反応として描写したくなるのは、言語実践全体の脈絡から切り離して捉えるからだ。迷いのないなめらかな言語使用の場面を切り取り、そこだけを見るならば、ただ自然な反応に従っているだけでしかない。だが、私の独り言はわれわれ言語実践全体の中に埋め込まれている。そうでなければつぶやきはただの無意味な発声にすぎない。


 著者はこれまで「言語使用のほとんどの場面でわれわれはたんに自然な反応に従っている」と語ってきたが、それはここで撤回される。確かにわれわれの言語実践は自然な反応傾向に支えられている。しかし言語実践を規範的なものとして語る以上、それを自然的なものとして語りだすことは許されない。語ることを、語られない自然が支えているのだ。

 

<読書メモ: この後半部分は珍しくセンチメンタルだ。それだけに著者の熱量を感じる。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷