作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

正義と悪と快と不快

 勧善懲悪の物語は、最初に悪事が為された後に正義が現れ悪をやっつける。そして我々は留飲を下げる。悪が為されると不快であり、悪に懲罰が与えられると快である。このように正義と快、不快はとても相性が良い。快感を味わうには外部に悪や敵を作れば良いということさえ言われる。(参考1)


 一方で、善とか徳になると話は急に難しくなる。正義は悪の次に出てくるが、善や徳は最初からそこにあるのだ。しかも単純な対立項が無い。更には快不快という感覚を伴いにくい。善や徳はひとつの理想だ。理想ゆえに言葉を尽くさねばならず、説明が難しい。


 話が変わって最近気になるのが快不快をアバウトに表現する言葉だ。「ヤバい」「鳥肌立った」「うざい」「むかつく」「きもい」。これらは事象を細分化して説明せずに、結果として現れた感覚や感情だけを表現する。感覚や感情だけが優先される状態は、勧善懲悪の物語と相性が良い。勧善懲悪の物語を消費するのに言語化という難しさは要らない。ただ興奮と心地良さだけが存在する。


 AIの進歩は言語化の能力を奪っていくだろう。ChatGPTのような文章作成AIはおそらく1~2年の間に急激に認知され、私を含め、知らず知らずのうちにそれに依存する人達を大量に作り出すはずだ。その方が楽だと知った人間は、言語化とりわけ論理構築の能力をいとも簡単に手放していくだろう。


 その果てに残るものは感覚だ。自分が自分であるという実感は、言語化能力が失われた場合、感覚に委ねられる。われわれは生きている実感を勧善懲悪の物語に重ね合わせ、悪を叩くヒーローに熱狂していく。善や徳のような面倒なものはインチキだと決めつけながら。


参考1 道徳の系譜 ニーチェ著、木場深定訳 岩波文庫 2019年第76刷(初版1940年) P51