作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その4)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章の註に関する。

 以下、本文抜粋。

 

P330

【1.複雑な私的言語】

 「E」には特定の体験を分節化する力はない。だが、自分の中で別の体験が生じそれを「F」と名付け、さらに別の体験が生じそれを「G」と名付ける。その時私的に体験がE、F、Gと分節化されうるのではないか。永井均氏は複雑な私的言語による私的な分節化、即ち独我論的秩序の可能性を主張する。

 

 永井氏は言う。私的言語「E」に加えて私的言語「F」の導入も考えてみる。「E」と「F」は異なる体験を名指し、また特徴的な状況や身体反応も伴わないと想定される。そして他人とは関係なく自分だけがEとFの二種類の体験を見出している。EもFも独立であれば成立が不可能な私的言語であるのだが、それらに相関関係があるとすればどうなるだろう。Eに続いてFが起きるという相関関係がある場合、もしもFが起きていなかったとすればEが起きたという判断は偽と判定できるのではないか。E単独の場合は実際に真偽が判定できるのであれば、私的言語は成立するかもしれない。

 

(しくい、ろましい、こむじいの文例あり)

 

 いつもはEに続いてFが起きるのだが、そのときはFが起きなかったとする。すると、私の中でEは本当に生じたのかという疑問が起こる。即ち「Eが起こったと思う」ことと「Eが起こった」こととの間にギャップが生じる。このギャップはこれまでの私的言語ではありえなかった。「Eが起こったと思う」ことと「Eが起こった」は完全に融着していたからだ。こうしてEに加えてFを考え、EとFの連動を考えれば私的言語の批判はかわせるのではないか。

 

 (しかし著者は永井氏に反論する。)

 

 Eに続いてFが起きることに例外が無い場合と有る場合を考えてみる。

 

 (1)例外が無い場合。

 EとFは一体であり、まとめてSという私的言語にまとめることもできる。そうなると私的言語Sは単独では成立しない。

 

 (2)例外がある場合

 Eの後にFが生じない場合、EとFの連動を考える以前に、それらはそれぞれ独立した私的言語でなければならない。つまり私的言語Eが成立しないならば、同じ理由で私的言語Fも成立しない。

 

 つまり私的言語は分節化されない場となるしかない。

 

<読書メモ

 いったい、私の中には他者とは関係なく存在する私的言語はあるのだろうか。言葉にするのが難しい体験や感覚は山の様にあるが、それを説明しようとするとき私は必ず既存の日本語を使う。「説明しようとする」こと自体が他者との関わりを求めているのだから他者に通じる言語を使うことは避けて通れない。

 既存の単語の意味を拡張すること(例えば「夜の底が白くなる」)を含めた言葉の発明も、他者との関係を前提に成立することに変わりはない。

 そうなると、無理やり「しくい」「ろましい」「こむじい」という言葉を意図的にひねり出す以外に私的言語と呼べる言葉を自分の中に持つことは無いような気がする。

 しかし、私としては直観的にしっくりこない。

 感覚の世界から突如言葉が立ち上がるなんてことがあるのだろうか。私は感覚と分節化の間にグラデーションを持った中間体のようなものが存在するような気がしてならない。そのグラデーションの中に私的言語と呼んでもよいものが隠れていそうな感じがする。

 著者は教育と訓練の過程で感覚と分節化のグラデーションを説明しようとしている。しかし完璧な習得が無いとすればいつまでもグラデーションは残っていそうなものだ。

 もどかしい。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷