作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P320
【私的言語と私秘的体験】
 言語は原理的に公共なものなので、私にしか理解できない完全に個人仕様の言語などはありえない。このことからさらに、本質的に私秘的(プライベート)であるような体験の不可能性を結論したくなる。著者も昔そう考えていたが、実は違う。原理的に他人の理解を拒むような言語は不可能、“それゆえ“、原理的に他人の理解を拒むような体験も不可能。だが、この”それゆえ”はインチキである。


 他人の理解を拒むようなプライベートな体験「E」は、その意味が原理的に他人と自分に理解できないのであれば言語ではない。しかし、これはそのまま体験には当てはまらない。


 かつて『論理哲学論考』の思考圏にいた著者は「意味」とか「理解可能性」にしばられていたので、プライベートな体験「E」もありえないと考えていた。


 この呪縛から逃れるのは困難だが単純なことだ。ひとはしばしば理解できない力に突き動かされて動く、このことをただ呑み込めばよいのだ。しかし、いったい何を呑み込むのだろうか。


 まずは私秘的体験を肯定する観点から見直してみる。私に生じた独特な体験を「E」と名付ける。昨日生じたあれは今日生じたあれと同じ種類の体験だと私は思う。しかし他人を拒否した私秘的な場面では真偽の区別はなくなってしまう。


 このとき言えるのは、私はそう思ったというところまでであり、「私が同じ種類だと思うもの」という規定は実効的な効力を持ち得ない。

 

 「私が同じ種類だと思うもの」は雲と猫と茶碗を同じ種類だとしても差し支えがない。私が思えばそうなるのだ。かくしてこの規定は無限に放恣な姿をとることになり、それは何らかの同一性を規定しうるものではない。


 つまり、私秘的体験はいっさいの分類を拒んでいる。雲と猫と茶碗を分類するような秩序を持ちえない。それはいっさいの具象的意味を剥ぎ取られた、抽象画のような世界だと比喩できる。著者は、そのような文節化された構造を持たない体験を「場」と呼ぶ。

 

【非言語的な体験の場】
 「私秘的体験」と「非言語的体験」は同じものだ。どちらも文節化された構造を持ちえない。文節化された構造を体験に与えるのは、ただ言語(公共言語)だけなのだ。


 言葉を持たない動物は体験を分類せずに受け入れている。「エサ」とか「敵」に対する反応は文節化されていない場のパターンに応じた特有の反応なのである。例えるなら気圧配置のパターンに応じて台風の進路が定まるようなものだ。そして彼らを観察する人間がそうした場のパターンを「エサ」とか「敵」といった文節化された言葉を用いて描写するのだ。

 

 人間もまた動物であるので、われわれも文節化されない非言語的な場にさらされている。だが人間の場合にはそこに言語によって文節化された世界もまた開けている。この二重性こそ人間の特徴だと言える。

 

<読書メモ

 私は、「言語化前の私秘的体験の場を言語で再構成することが人間の特徴だ」、と読み換えた。
 梶井基次郎の小説「檸檬」では、檸檬に関する様々な感覚を言語化している。色、形、冷たさ、匂い、重さ。そして檸檬は自身の肺病から来る不吉な塊を一掃し、色褪せた画集の群を吸収し冴えかえ、ついには大爆発を想像させるに至る。すべて檸檬に関わる体験が元になっている。
 体験を言語化すると、その周辺はどうしても削り落とされてしまう。言葉で説明できないものがあるとは、その削り落とされたものが私秘的体験のまま分節化された構造を与えられないということなのだろう。
 野矢氏は更に一歩進んで、言葉にならないものに視線を向けることはとても大事なことであり、削り落とされたものを丹念に拾い集めて言葉にすることこそが人間の人間たる所以だと言っているのではないだろうか。私はそう理解したい。
 梶井は自身の体験を丁寧に言語化している。彼の作品は病魔に侵されていく自分自身を描いたものが多いのだが、客観的であり悲劇の主人公的な感じが無い。言葉によって削り落とされていく体験をあきらめずに一つ一つ拾っていく作業が、彼を最期まで人間らしくさせたのではないだろうか。>

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷