作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第14章、その1)

本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は14章に関する。

 以下、本文抜粋。

 

P234

 言葉に対応する意味とは何か。「鳥」という言葉が意味するものは何か。

P235

【個別性と一般性のギャップ】

「言葉の意味とは何か」という問いを考えるため「鳥」という一般名詞を考えてみる。一般名詞は一般性を持つが、カラスやペンギンやダチョウのどれをとっても「鳥一般」ではない。

 

 鳥は鳥たちの集合であるならば、これから生まれてくる鳥たちも含む無限集合となる。人間は無限集合を認識できない。よって鳥は鳥の意味を理解している人だけが想定しうる理論的措定物にすぎない。これを「個別性と一般性のギャップの問題」と呼ぶ。

 

P236

【意味は心の中にある?】

 ジョン・ロックは言った。「言葉は一般的観念の記号とされることによって一般的となる。そして観念が一般的となるのは、その観念から時間と場所の状況が切り離され、またそれ以外にもその観念をあれこれの個別のものにするような他の緒観念がすべて切り離されることによる。この抽象という仕方によって、観念は一つ以上の個体を代表しうるようになるのであり、個々の個体が(一つの呼び名で表されるような)その種のものとされるのは、それがこの抽象観念と一致するからにほかならない。」

 ここには二つの問題点がある。

 

P237

【鳥の一般観念は何色か】

  問題点その一。一般観念という言葉があいまいだ。個別の対象は一般観念を参照することで一般名詞として区別されるが、そんな一般観念はあり得ない。

 

P238

【心の中をもちだしても何も変わらない】

  問題点その二。仮に一般観念があるとするならば、それは心の中に形成される何かだ。しかし心の中も世界の一部であるとするなら、「個別性と一般性のギャップの問題」は埋めることができない。つまり心の中をもちだしても何も変わらない。

 

 例えば「悲しみ」という一般名詞は個別の悲しみの個別事例をすべて含み、今後私と他の人のあいだで起きる無数の「悲しみ」を含んでいる。それは無限集合だ。

 

かといってそれら無数の「悲しみの一般観念体験」を抽出して、より一般的な悲しみの一般観念を抽出するのだとすると、それでは無限後退となってしまう。

 

P240

【無意味論】

 そこで、「一般名詞は言語使用の源泉としての意味を持たない」という「無意味論」と呼ばれる考え方が出てきた。ウィトゲンシュタインも「無意味論」の側に立っている。

 

P241

【規則のパラドクスの破壊力】

規則のパラドクスはウィトゲンシュタインが「言語使用の源泉としての意味」という考えを攻撃するために用意した議論であり、おそらくそれは最強の議論である。

 

 ある生徒が「+2」の概念を把握したとする。そこには無限の問いがあるが、心はすべての答えを収納することはできない。しかしこの生徒は「+2」の観念をいまこの問題に対して適用しなければならない。そこでこの生徒は自分なりに考え、1000+2を1004と答えるのだ。

 

 われわれは、観念と意味を把握しつつもわれわれとは違う仕方で適用してしまう人を考えることができる。同じ観念や意味を違う仕方で適用できるということは、その観念や意味は唯一の適用を生み出す「適用の源泉」ではない。

 

ウィトゲンシュタインは言う。「規則や事例を通じ、間接的な仕方で諸君がある人の心に意味を生み出していると考えるのは、幻想なのだ」

 

 言葉は意味を持つというが、言語使用の源泉としての意味は幻想でしかない。子供が言葉を学ぶとき、言葉の持つ意味の深淵を探ることはしない。ただ具体例を示され以下同様と言われ、以下同様にやっていくだけのことである。そこに意味は余計でしかない。ここで大事なことは、この表層にとどまり更なる深みを探ろうとしないことだ。そこには「哲学探究」の新たな言語観が見えてくる。

 

 

 <読書メモ: 「行為空間と論理空間」、「規則のパラドクス」、「個別性と一般性のギャップの問題」、「以下同様」、「適用の源泉」、「無意味論」。どれもこれも意味を突き詰めると矛盾に至るのは何故だろう。そして極端と極端を結ぶ線上に重心を見つけたくなるのは何故だろう。あるいは端と端をつなげて同じことだと言いたくなるのは何故だろう。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷