「語りえぬものを語る」 読書メモ(第14章、その2)
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は14章の註に関する。
以下、本文抜粋。
【1 命題関数】
「一般名詞の意味は一般観念である」と言う哲学者や「無意味論」を唱える哲学者はほとんどいない。いまの哲学者は「それは<xは鳥である>という命題関数である」と言う者が多い。
ここで命題関数を考える。
鳥という一般名詞は「鳥である」という術語で捉えられる。術語ということは即ち<xは鳥である>という関数で捉えられる。関数が意味するものは、xが鳥であるかどうかを判定するものだということだ。「カラスのカー吉は鳥である」は真だが、「野矢茂樹は鳥である」は偽と判定される。
即ち鳥という一般名詞は<xは鳥である>という命題関数だとされる。
だが「鳥」という語が<xは鳥である>という命題関数を意味としてもつとはどういうことだろうか。命題関数という対象がどこかにあるということなのか、これが<xは鳥である>という命題関数だといえる何かがあるということなのか。
(以下、著者の考え)
命題関数はある時間・ある場所に存在しうるものではないので、世界(心を含む)の中に存在しうるものではない。おそらくイデア的なものなのだろうが、著者は理解できないという。
むしろ命題関数は無意味論に親和性があると著者は考える。つまり命題関数の考え方によると、命題関数という対象を想定する必要はない。
命題関数は何か対象を入力するとそれに応じて真偽を出力する関数だ。つまり、命題関数を理解しているということは、任意の対象について真偽を識別できる能力をもっているということだ。それ以上でもそれ以下でもない。
無意味論は言葉が意味を持つことを否定する。言葉の意味と呼ばれる何かを想定することを拒否する。その代わりに意味理解について語る。鳥の意味ではなく鳥の意味を理解するとはどういうことかを問うのだ。それは意味なる何ものかを理解していることではなく、「意味理解」と呼ばれるタイプの理解があるということだ。無意味論では「意味を理解している」と呼ばれることがらを正確に見てとること、余計な説明を加えないことが求められている。
鳥を識別するのに「鳥」という(一般名詞の)イデア的な対象を想定する必要はない。
<読書メモ: 倫理学を例に考えてみる。確か倫理学においても、「倫理的に正しいものはなにか」を議論する方向と、「倫理的に正しいとはどういうことか」を議論する二つの方向があると聞いたことがある。その後者が「意味理解」に近いのだろう。倫理観の正誤よりも倫理のあり方を見つめることが無意味論的な議論であり、本文中の「余計な説明」とは倫理観の正誤のことだと類推する。>
【2 後期ウィトゲンシュタインの言語観】
前期のウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で言葉の意味を言葉の世界との関係から捉える「意味的論」をもとにしていた。
しかし後期の『哲学探究』では人と人との関係から言葉を捉えようとしている。そして彼は「言語ゲーム」という考えに行き着く。