作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第23章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は23章の註に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P405

【1 男らしさ】
 「男らしい」という言い方は男のプロトタイプを示していない。道ですれ違った男性を男だと認識する時、必ずしもその男性を「男らしい人」だとは認識しないからだ。では、「男らしい」とは男のプロトタイプとどう異なるのか。


 まず、男のプロトタイプを考えてみる。ふつうの男が典型的にもっている性質だけをもち、例外的な性質は一切もたないような人物像だ。では「ふつうの男が典型的にもっている性質」とは何か。


 「男というものはふつう(女と比べて相対的に)x」のxだ。「力が強い」「勇敢だ」「大胆だ」「気が利かない」「大雑把だ」など多くがリストアップされるだろう。しかしほとんどの男性はそのリストの項目のいずれかを満たさない。しかしこれはあくまでも「ふつうの男」像だ。また、「男」は「女」との対比を成す概念だから、基本的に女性との対比となる。


 ここで、「ふつうの男」と「男らしさ」を比べてみると、「男らしさ」には「力が強い」とか「勇敢」であることは含まれても「気が利かない」や「大雑把」は含まれない。つまり、男らしさとは男のプロトタイプを構成する諸性質の中からポジティブなものを拾い出したものである。

 

 【2 典型的な世界】
 「プロトタイプ」と言わずに「典型的な物語」と言うことによって、より全体像的な含みが出る。例えば鳥のプロトタイプはあたかも図鑑を見ながら鳥の概念を習得しているようだ。しかし鳥に関する典型的な物語を語ることは、生息地や飼われたり食べられたりもする、きわめて多様な概念の全体を語ることだ。


 しかも、ある概念にまつわる通念を語り出すとき、そこに登場する他のものたちもまた、プロトタイプとなる。例えばふつうの犬はふつうの人に飼われている。そこではいっさいの個性をはぎとられた純粋に概念レベルの普遍的な物語を語り出す。そこでは概念同士は論理的な関係よりもゆるい、通念レベルでつながりあい関連は広がっていく。


 そして、典型的な物語は全体として典型的な世界全体を語り出すものとなる。もちろん手の届く範囲にスポットライトを当ててその一部分だけを語ることになるが、われわれが暗黙のうちにもつ概念のレベルでは、ある概念が開く典型的な物語は世界全体に広がっていくのだ。


 著者はこの全体論的な含意をこめて、「典型的な物語」と呼ぶ。これはたんに「プロトタイプ」言い換えたものではなく、そこから一歩踏み出したものとなっている。

 

【3 「物語をこめる」ということ】
 例えばそこに陶器のコーヒーカップがあれば、そこから典型的な物語が読みとられる。コーヒーを入れ、手に持ち、口に運び、洗って、しまう。


 さらに、この相貌のもとに無数の物語が排除されている。例えばコーヒーカップがひとりでに動き出すことがないという了解や、コーヒーが自然に湧き出てくることはないという了解をわれわれはもっている。


 われわれがコーヒーカップを見るとき、その相貌はその一時点の事実をはみ出している。


 第一に、その時点に先立つ過去の物語やそれ以後の未来の物語をもっている。
 第二に、反事実的な想像(倒したらこぼれるなど)をもっている。
 第三に、無数の荒唐無稽な可能性を排除している。


 われわれの現在の知覚は、このように過去-現在―未来という時間の流れの中にあり、反事実的な可能性の了解に取り込まれ、さらに無数の可能性を遮断することによって成り立っている。 著者はこれらをまとめて「相貌には物語がこめられている」と表現する。


 だが、「こめられている」とはどういうことだろうか。


 少なくともそれらは表立って考えているということではない。過去、未来、反事実的可能性、排除される無数の可能性、そうした物語の全体をすべて考えていることはありえない。


 われわれが生きているのは「いま」であり、向かい合っているのはつねに現実の事実だ。


 しかし、決して静止した一時点を生きているわけではない。そこは運動の途上にあり一定の方向を示している。目の前のコーヒーカップに対して、それを手に取り、コーヒーを飲もうとする構えのもとに見ている。こうした運動の方向に対する感受性の現れが相貌である。(おそらく相貌は、行為ないし行為の意図と密接な関係をもっている。しかし、著者はまだそうしたことを見通せていないという。)

 

【4 個体と相貌】
 「個体と普遍」を論じる。犬を「ポチ」と捉えるときそれは「個体」と呼ばれ、「チワワ」という一般的な括り方で捉えるときそれは「普遍」と呼ばれる。だとすれば相貌は普遍である。では個体と相貌の関係はどのようなものか。「ポチという相貌」は考えられないのだろうか。


 例えば「N・Y」という名の人がいる。N・Yさんを知るようになると、「N・Yさんらしいね」「N・Yさんらしくないね」と呼ぶべきもの、つまり「N・Yという相貌」が成立する。「N・Y」という人名は「N・Yさんらしい」という言い方において普遍名詞として機能する。固有名詞の普遍名詞化はたとえば「現代のソクラテス」という言い方における「ソクラテス」のように、ソクラテスに関わる典型的な物語を開くものが挙げられる。


 このように普遍名詞としての機能を担うとき、固有名詞であっても相貌が伴うことになる。


 さて、そうだとすると、個体とは何か。


 チワワにポチと名付けたとき、特定の相貌示しているそれに名前をつけたが、その特定の相貌に名前をつけたのではない。


 ポチは、特定の相貌をはみだしていく無限のディテイルを示すだろう。ポチの表情や毛の色でさえ、語りつくすことはできない。また、ポチのどのような典型的な物語を語ろうとも、ポチはそれをはみ出していく物語を生きるだろう。著者は「それ」こそを「ポチ」と名付けたのだ。


 「それ」とは「実在性(リアリティ)」である。「それ」とはこちらがあてがった物語をはみ出し、さらなる語りへと突き動かす力――語らせる力――である。個体とは不変不滅の実体ではない。かつてヴィトゲンシュタインは『対象とは不変のもの・存在し続けるものである』と主張したが、それは間違いだと著者は言う。持続するのは、著者を語らせるポチの力であり、その力に応じようとする著者のポチへの関心である。著者は持続する関心のもとに語らせる力を「ポチ」と名付けた。


 それゆえ固有名詞とは、対象の名前ではない。


 著者は対象なき固有名詞という考えを「個体の唯名論」と呼ぶ。著者はかつて固有名詞の意味が時々刻々と変化すると論じたが、今や固有名詞は対象を指示しないと考えようとしている。


<読書メモ
 「固有名詞は対象を指示しない」なんて思ってもみなかった。斬新だ。そして、よく考えてみるとかなり厳しいことを言っている。
 実在性(リアリティ)が固有の名をもって物語を紡ぐことだとすると、人間のリアリティは堂々と名乗って公衆の面前に出て何かを行って批判されることにしか見いだせないのではないだろうか。 
 批判されないということは自分の範疇を超えていないということになる。内に籠った状態と同じだ。あるいは批判されないということは世界に相手にされていないということだとも言える。どちらもリアリティからは遠い。
 固有名詞の無いふつうの世界に物語は存在しない。お金の世界は固有名詞の物語を飛び越してふつうの世界をモデルとする。お金の世界は交換可能な労働力を源泉としているからだ。だとするとお金を軸として消費し消費される行為にリアリティを求めてはいけないのかもしれない。
 と、そんなことを考えているとこのブログが匿名であることに思い至った。つまり私のブログ記事にはリアリティがない。私は世界と関わることを拒否していることになるのだろうか。>


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷