作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第15章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は15章の註に関する。

 以下、本文抜粋。

 

P258

【1 相貌の客観性】

 ある事実がある相貌のもとに立ち現われているとき、それはその共同体において客観的だ。相貌は主観的ではない。例えば電子顕微鏡があったとして、一般の人にはそれが何だか分からないが、研究者の共同体においては電子顕微鏡の相貌を伴って立ち現われる。このとき電子顕微鏡は主観的ではなく客観的だ。

 

 クワスが普通に行われている共同体をクワス共同体と呼び、プラスが普通に行われている共同体をプラス共同体と呼ぶことにする。このとき「5+7」は、クワス共同体でもプラス共同体でもどちらも「12」となる。

 

 ここで、クワスとプラスの可能性を均等に見渡せる神ならば、どちらの可能性も均しく開けるので「5+7=12」という記号列はその記号列の意味しか持たないだろう。

 

 しかし、われわれ人間はプラス共同体に属するため「5+7=12」はプラスの相貌のもとに立ち現われる。

 

 以上が、相貌は客観的事実だという説明である。

 

 

【2 個別性と一般性のギャップ再考】

 前章で「鳥一般」という鳥は存在しないことを説明したが、ここでこれを再考する。

 

 カラスが鳴けば著者はそれをカラスの相貌のもとに捉える。しかしよくわからない鳥が遠くの空を飛んでいるとき、著者にとってはその相貌は「鳥一般」である。

 

 ここで日常はものごとを個別的ではなく一般的な相貌のもとに捉えていることがわかる。普通はコンビニで買う「鮭バターおにぎり」に固有名を付けることはしない。つまりそれは「鮭バターおにぎり一般」である。おにぎりをどこまで細かく規定しようとも、固有名詞を付けて他と区別しない限りそれは一般的なものに対する態度だと言える。

 

 われわれがショーケースに並べたクッキーを指さして「これください」と言い、店員が同じ種類の箱入りクッキーを別の場所から差し出す。この場合の「これ」は固有名詞ではなく一般的な相貌を示しているのだ。

 

 ここで一般名詞の意味を一般的相貌と呼んでもかまわない。しかし、一般的相貌を知ることによって一般名詞の意味を学ぶことはできない。われわれは具体例によって一般名詞の言語実践を学び、それが相貌を成立させる。つまり言語実践が相貌を成立させている。

 

                                                                                                  

<読書メモ: 一般名詞の意味を一般的相貌と呼んでもよいが、間違えてはいけないのは、言語実践が相貌を成立させるがその逆はないということだ。以下は私が思ったことを、メモしてみた。

 

 古典と言われる哲学書では、通常一つのキーワードが沢山の例によって説明されている。それはその哲学者が一生を賭けて紡ぎ出したワードだ。

 

 しかし、今はとても便利なので忙しい人向けに「1時間でわかる世界の哲学」みたいなまとめを読んで理解した感じになることが出来る。あるいはネットの2行くらいのまとめ文だけ見て分かった感じになってしまうことも可能だ。

 

 しかし果たしてそうやって得た知識のもとに立ち現われる相貌は、哲学者が一生を賭けて作り上げた相貌をどこまでを反映しているのだろうか。

 

 またこれは、他人を理解する上でも同じことが言える。会ったこともない人の悪口を聞いてその人を理解したような感じになることはよくあることだ。本来であれば、その人と直接会話をして言語実践から無数の具体例を得なければならない。そうすることでその人と私の小さな共同体の中の客観的な相貌が立ち現われることが大事なことなのだろう。>

 

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷