作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第16章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は16章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P263
懐疑論
 哲学的懐疑論はわれわれが疑いもしなかったことに限って疑いをかけてくる。例えば「すべては夢じゃないのか」「われわれのもつすべての記憶は誤りではないのか」という疑いだ。


 本書では三つの懐疑論を紹介してきた。
(一)    ヒュームの帰納の懐疑。未来が過去と同様である保証はない。
(二)    グッドマンのグルーのパラドクス。エメラルドがグリーンではなくグルーであるとすれば、未来に見るエメラルドはグルーと予測することができる。この予測の可能性は根拠を挙げて否定することができない。
(三)    クリプキによる規則のパラドクス。5+7=12がクワスなのかプラスなのか、その具体例だけでは規則が決まらない。(ウィトゲンシュタインの解釈では懐疑論の範疇ではないが、その解釈を離れると過激な懐疑論として見ることができる)
 
 夢や記録の懐疑は「論理空間の懐疑論」、一、二、三は「行為空間の懐疑論」と言える。

 

 論理空間の懐疑論は、われわれの論理空間を超えるものを示す。夢は通常現実との対比により存在する。誤った記憶は正しい記憶との対比により存在する。よってすべてが夢、すべての記憶が誤りということは、現実や正しい記憶が存在しないことを意味する。


 夢や記憶などわれわれに馴染みのある言葉を使いながら、実はわれわれの論理空間を超えた拠点を示唆している。すなわちわれわれには理解不能だ。これが論理空間の懐疑論である。

 

 これに対して行為空間の懐疑論はあくまでわれわれの論理空間の中で行われる。未来が過去の同様ではない可能性は理解できるし、グルーやクワスも理解することは可能だ。これが行為空間の懐疑論である。

 

【行為空間の強調で懐疑論は論駁できるか】
 行為空間の懐疑論に対しては、「われわれは行為空間を離れては生きられないことを強調する」という対応になる。


 例えばグルーのパラドクスに対してグッドマンは「習慣による囲い込み」を強調した。われわれはグリーンという概念を用いて予測を行ってきたので、そこから帰納を行ってグリーンの予測を妥当とする。


 既知の事例から未知の事例へと概念の適用範囲を広げることをグッドマンは「帰納」よりも広い概念として「投射」と名付けた。ここでは帰納や投射を検証することはしない。グッドマンの指摘の方向は概ね正しいが、ひとつ注意すべき点がある。


 グッドマンは妥当な帰納(投射)と妥当でない帰納(投射)を区別するが、帰納懐疑論の論駁に使っているわけではない。あくまでグリーンが囲い込まれ、それをもとに予測することが妥当だとしているに過ぎない。だが、懐疑論は囲い込みが根拠を欠いたものとする。そしてグッドマンもその根拠の欠如を認めるだろう。

 

 妥当な帰納と妥当でない帰納は我々の生き方の中で区別されるが、われわれの生き方の妥当性を絶対視するものではない。グッドマンは相対主義者だ。グルーはわれわれとは異なる世界、異なる生き方の可能性を見ていた。

 

懐疑論への応答】
 著者もまた、われわれが(われわれの)行為空間を生きる根拠はないと述べており、いくら行為空間に訴えても懐疑論に対抗する力はないとする。


 懐疑論は論駁しなければならないわけではない。行為空間の懐疑論は理解こそできるが体がついていかないというレベルの理解である。懐疑論はわれわれの行為空間を変えろと言っているわけではなく、行為空間の外部を示しているにすぎない。そうであれば懐疑論は論駁されるべきものではなく、まったく正しいものだと言える。

 

【論理空間の外部】
 行為空間の懐疑論が正しいとすれば、論理空間の懐疑論もまた鷹揚な態度で接するべきではないだろうか。


 「すべてが夢」、「すべてが誤った記憶」という懐疑論は、われわれの論理空間には存在しない概念である。しかし、これが論理空間の外部を示唆しているのだとしたらその懐疑論は排除すべきではないかもしれない。


 われわれにとってのナンセンスが単なる無意味ではなく、外部を予感させるものとなるためには、論理空間の内部の言葉を使って(極限化して)その外側に出るしかない。

 


<読書メモ: 

 仏教の色即是空や相即相入は、われわれを論理空間の外側に連れ出そうという試みだ。理解可能な言葉を突き詰めることによって理解不能な概念を作り出すこと。これは即ち、理解不能な概念であっても言葉を突き詰めることによって何とか理解しようとする試みに通じる。

 この試みは単なる言葉遊びではない。他人や異文化に対する自らの態度の問題だ。単なるナンセンスかそうでないかは自らの捉え方次第で決まる。>


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷