作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第13章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解の範囲で文章を崩している。本記事は13章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P214
【ザラザラした大地とツルツルした氷の上】
 ウィトゲンシュタイン哲学の前期、「論理哲学論考」ではあらゆる論理的可能性が均等に開けるのっぺりとした論理空間が広がる。我々が論理空間に留まろうとするならば一寸先は闇だ。ウィトゲンシュタインは後期の「哲学探究」で、それをツルツルした氷の上は歩けないと形容した。

 

P216
 【規則のパラドクス】
 我々には2ずつ加算される列数に見えるものが、別の解釈によるとそうではないと見えることもある。「以下同様」をどうすれば理解させられるか。これをウィトゲンシュタインは問題としている。

 

P218
【「以下同様」と『論理哲学論考』】
 この議論は論理哲学論考の核心部分だ。われわれの経験が有限であるかぎり、論理空間もまた有限のサイズに留まる。ゆえにわれわれは無限そのものを思考することはできない。そこでウィトゲンシュタインは、果てしなく続く繰り返しを無限として捉えた。


 ここでいう無限は、無限があるという実無限ではなく、いつまでも繰り返して良いという可能無限である。無限を捉えるためには「以下同様」が成立しなくてはならない。
ウィトゲンシュタイン論理哲学論考の草稿で「・・・・」という記号で表される「以下同様という概念は、最も重要な概念である、と述べた。ウィトゲンシュタインが核心と捉えた概念を自ら「・・・・」という曖昧な記号で表現したということは、これが要であると同時に論理哲学論考を逸脱したものであると言える。この問題は規則のパラドクスによって明らかになってきた。

 

P219    
【氷上で「以下同様」は無力となる】
具体例をどう延長し、どの様な規則を読み取ればよいのか。我々よりも頭の良い知性体は具体例から論理的に可能なあらゆる規則を読み取ってしまい、以下同様と言われてもどの規則を適用すべきか分からず途方に暮れてしまうだろう。


 「規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、如何なる行為の仕方もその規則と一致させることができるからである」(哲学探究、第二〇一節)。これが「規則のパラドクス」と呼ばれるものである。


 よって「以下同様」が成立しない氷の上では、具体例は将来の適用を定めてはくれない。ここではあらゆる「規則」、例えば法律、ゲームのルール、日本語文法、そして論理もその効力を失う。つまりあらゆる論理的可能性を立ち上がらせることで論理が成立しなくなる。ここに論理空間の皮肉がある。

 

 

<読書メモ>
 一つの具体例に対して無数の規則が立ち現われる論理空間において、「以下同様」は成立しない。しかし、「以下同様」が成立しなければ可能無限も成立しない。論理が成立すると必然的に無限も成立するはずだが論理空間においては「以下同様」が成立しないため、論理空間で論理は成立しない。これがウィトゲンシュタインの論説を根本から揺るがすパラドクスだと著者は言う。

 

 

P221
【ザラザラした大地への帰還】
 われわれは歩くために摩擦のある大地に立たねばならない。これは『論理哲学論考』が視野に入れなかったものだ。それはヒュームの「人間本性」、グッドマンの「習慣による囲い込み」、われわれの用語では「行為空間」である。


 われわれの活動において「以下同様」は効力を持つが、誤解が常につきまとう。大事なことは誤解を誤解として認め合い、説明によって誤解を正すことができるということである。


 ではなぜわれわれの場合「以下同様」が効力を持つのだろうか。われわれは似た様な本性を持っているからと説明したくなるが、実際はそうではない。われわれの本性は実際に問いに答えてみることでしか明らかにされないからだ。


 論理空間に含まれる可能性を均等に考慮する存在を<神>と呼び、その可能性を最初から無視して行動する存在を<人間>と呼ぼう。<人間>であれば「以下同様」から規則を定めそれを実践することができる。しかし<人間>ならば必ず「以下同様」が効力を持つとは限らない。


 1000以下では二つずつ増えるが1000より大きな数字の場合は四つずつ増えるという反応傾向を持つ人達が集まる共同体がいたとする。その共同体には、すべての数字が二つずつ増えるという反応傾向を持つ人達の共同体とは別の実践が開けるに違いない。異なる共同体の人間を異質な人間と呼ぶことにし、一つの共同体の内部は同質な人間と呼ぶことにしよう。但し同質といっても完全に同じ反応傾向を示す必要はなく、実践を破壊しない程度の同質性を求められる。


 では、同じ共同体に属するあなたとわたしは同質な人間なのか。あなたとわたしの反応傾向をすべて取り出す比較することはできない。しかしそれでもわれわれの実践は同質性を見込んでいる。これを「人間像」と捉えたい。この「人間像」は先に述べた「世界像」の一部で、この「人間像」を手放せば実践は破壊される。


 論理もまた実践である。まず論理空間があって行為空間が切り取られるのではなく、行為空間を生きることによってのみ人間は論理空間を張ることができる。

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷