「語りえぬものを語る」 読書メモ(第16章、その2)
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は16章の註に関する。
以下、本文抜粋。
P272
【1 偽札論法】
論理空間の懐疑論を自滅的なものとするものとして「偽札論法」がある。
一般に任意なものに成り立つものはすべてものについても成り立つ。しかし、偽札に限ってはそれが成立しない。「任意のお札は偽札かもしれない」は成り立つが、「すべてのお札は偽札かもしれない」は成り立たない。すべてのお札が真札でないとすれば、そもそもお札が成立しない。真札が無ければ偽札も存在しない。
ある概念AがAでないものとの対比で成り立っているとき、「すべてがAだ」あるいは「すべてがAではない」としてその対比を消滅させることは、その概念の成立基盤を突き崩すことになる。このように、主張自身がその概念を消滅させる(ナンセンスとする)文を自滅文と呼ぶ。
ここで「『すべてのお札はただの紙切れである』はナンセンスとは言えない。」という反論を紹介する。確かにこれは自滅文ではない。紙切れはお札から独立する概念である。仮に「お札」という言葉が無意味であったとしても「お札と呼ばれているもの」という表現は意味を持つ。従って、懐疑論により「お札」の意味が破壊されたとしても、この文は成立する。
これは記憶の懐疑論にも応用できる。「『すべての記憶は妄想である』はナンセンスとは言えない。」
まず、お札の反論から考える。われわれはある種の紙切れで買い物をしている。この営みを前にして、「すべてがただの紙切れだ」と疑うことに何か実質はあるのだろうか。結局世の中の紙切れは、買い物ができる紙切れと、買い物をすると罰せられる紙切れと、買い物をしようとしても相手にされない紙切れの三種類しかない。われわれは買い物ができる紙切れをお札と呼んでおり、それをただの紙切れだとする懐疑には何の実質もない。
すべての記憶は妄想である、という文も同様である。妄想には、自分では記憶だと思っている「リアルな妄想」と、願望だったり予感だったりする「ヴァーチャルな妄想」がある。われわれは「記憶」と呼ぶのは「過去に関するリアルな妄想」である。
ただし、「過去に関する」という部分は更に詰めて考えねばならないことがあり、それは20章で論じる。
【2 理由のない個別の疑い】
「すべてのお札は偽札かもしれない」という包括的疑いの懐疑論は自滅文だが、「このお札は偽札かもしれない」という個別の疑いの懐疑論は自滅にならない。お札を見て何かおかしいという理由があって疑う場合を「理由のある疑い」と呼び、何も理由が無いのに疑う場合を「理由のない疑い」と呼ぶ。「理由のない疑い」は哲学的疑いだと言える。
「包括的疑い且つ理由のある疑い」は論理的に成立しない。
「包括的疑い且つ理由のない疑い」は自滅文となる。
「個別の疑い且つ理由のある疑い」は実際の生活で起こりえる。
「個別の疑い且つ理由のない疑い」は前提とする概念を破壊することなく成立する。
個別の疑い且つ理由のない疑いの例は、理由もなく「これは夢かもしれない」という疑いや、理由もなく「このお札は偽札かもしれない」という疑いだ。哲学的疑いとも言える。これは夢やお札という概念を破壊することなく成立する。もしもこの疑いを確認しなければ次の行動が出来ないとなれば、われわれの生活は成り立たない。
包括的疑い且つ理由のない疑いが論理空間の懐疑論だとすれば、個別の疑い且つ理由のない疑いは行為空間の懐疑論だ。
<読書メモ; 行為空間の懐疑論とベクトルのずらしは人をねじ伏せる時によく使われる。これを使えば、誰もが反対し難いものや正義に見えるものを極大化させて、意味がありそうで実質のない言説を作ることができる。
「身を護るためにナイフを持たねばならない」という主張は、「常に、誰もが」という包括的前提においては常識的に成立しない。しかし「相手がナイフを持ったら」という個別の条件が加わると成立するかもしれないと思わせてしまう。
そして「襲われる確率がゼロだと言えるのか」、「大事な人が殺されるのを黙って見ているのか」という個別であるが理由のない疑い(極論と呼ばれるもの)で補強される。最後は「ナイフを持たないのは無責任だ」といった包括的議論に還元され、その結果、「常にナイフを持つ」という包括的結論が正当化されることになる。
また、ベクトルのずらしも時々見られる。最近の例では「それはあなたの感想だ」と「興味がない」といった類のものだろう。これらは客観的な議論を突然主観の世界に落とし込む手法だ。相手の主観にすり替えて客観性が無い様に見せかけたり、自分の主観の世界に籠って相手を拒絶するやり方といえる。
困ったことに行為空間の懐疑論とベクトルずらしを意図的に使う人は、議論に強いと思われることが多い。議論しているように見えて実は議論をさせないように誘導するためには、論旨よりも声色やタイミングが重要だ。これは一種の芸である。暴力が生物の個体間の優位を決める状態にも似ている。>