「語りえぬものを語る」 読書メモ(第10章、その2)
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。本記事は10章の註に関する。
以下、本文抜粋。
P175
1、 ヒュームの帰納の懐疑とグルー
太陽は明日も昇る、蚊に刺されるとかゆくなる。これらは未来は過去と類似しているだろうという信念でしかない。これがヒュームの「帰納の懐疑」だ。
それに対しグッドマンは過去の捉え方が定まらないという「新たな帰納の謎」を示す。これは過去と未来のギャップの問題ではなく概念使用の問題である。
P176
2、 グッドマンの相対主義
グルーのパラドクスは、帰納に関するパラドクスであると同時に相対主義の脈絡に位置づけられるものだ。
グッドマンは、世界は我々によって作られると考える。「世界は我々の手持ちから出発する。従って制作とは改作(リメイク)だ。」とする。グッドマンは枠組みと独立の内容を想定してない。彼によるリメイクの操作を示す。
① 分解・合成
② 重みづけ・強調点変更
③ 基本的なものと派生的なものの順序変更
④ 削除・補充
⑤ 誇張し、歪めるといった変形
これはデイヴィドソンが批判した枠組みと内容の二元論を回避している。これがグッドマンの相対主義の重要な特徴だ。
<私的メモ:これが何故デイヴィドソンの二元論を回避していることになるのか、よく分からない。もう一度読み直さねばならないのはおそらく6章と7章だろう。>
P177
3、 サビア=ウォーフの仮説
「言語は経験を組織化する。それゆえ言語が異なれば世界把握の仕方が異なる。」これは素人受けする仮説だが著者はそのまま受け入れることはできないと主張する。
サビア=ウォーフの仮説の例として、「イヌイットの雪に関する語は状況に応じて数多くあるが、日本語の雪のようにそれらを総称する語はない」というものが挙げられる。しかし著者は、日本語でも長い説明を尽くせばイヌイットの概念を説明できるし、それならばイヌイットと日本人の概念が異なるとは言えないとする。
但しここで著者は、グルーのパラドクスにより「翻訳できたからといって必ずしもその概念を共有できるわけではない。」という考え方に変わる。しかし同時に「翻訳語数が異なるからといって概念枠が異なるとも言えない」とも考える。
問題は概念が実際に使用されているかどうかにある。語彙の存在や翻訳可能性だけで概念の差異は議論できない。
そうだとすれば、翻訳が一語で可能か、複数の語彙によって可能かということは、実は本質的な差異である。言葉は道具であり、その道具が使いやすいかどうか、即ち一語で説明できる内容があるということと、それが複数の語や文でしか説明しできない内容であるということは、生活様式の差異に基づくのだ。
<私的メモ: 結論としては一周回ってサビア=ウォーフの仮説に戻った様に見えるが、著者は違いを分かって欲しいとして説明している。>