作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第7章、その3)

 本書(参考1)ヴィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。本記事は7章の註(P112 ~P122)について抜粋する。


 註は用語の曖昧さを排除するための解説だ。著者は後から読んでもよいとしているが、読み手の語感だけが先行すると誤解して読み進めることになるので、スキップしない方が良さそうだ。


P112
1、    概念枠と言語
 コウモリや犬の視覚は人間とは異なるので、違う概念枠があるという考え方は可能だろうか。著者は出来ないと考える。コウモリや犬は概念を持っているわけではないからだ。

 

 概念とは第一に個別の対象に適用され、一般性を持つ。第二に他の概念や対象と組み合わせてさまざまな命題を構成しうる。この特徴を満たすためには言語が不可欠だ。概念枠は言語によって規定せられねばならない。

 

P114 
2、    翻訳可能性
 文学作品を完全に翻訳することはできないと思われるが、それは概念枠が異なることを必ずしも意味しない。

 

 何故なら、概念枠は世界をある仕方で分節化するので、ここで問題とされる翻訳は世界のあり方の記述として考えてよいからだ。

 

 例えば受動態と能動態は、どちらも一つの世界のあり方を記述していると言える。「世界のあり方がどうであればその記述は真となるのか」を「真理条件」というが、「AがBを叱った」と「BがAに叱られた」は同じ真理条件を持つ。

 

P116
3、    相対主義を批判するデイヴィドソンのもう一つの議論
 デイヴィドソンは「一つの同じ経験に複数の異なる概念枠が適合(fit)する。」という考え方も批判している。

 

 「概念枠が経験に適合する」は「理論が経験に適合する」と言い換えられる。するとその理論に含まれる命題は、すべてその経験のもとで真とされることになる。これを「理論が真である」と簡単に言おう。「概念枠が経験に適合する」とはその理論が真であることだ。

 

 そうであれば、「翻訳不可能にもかかわらず、われわれと同じ経験に対して適合しているような何らかの理論ないし概念枠を彼らは持っている」と言えるためには、「われわれと同じ経験のもとで真であるような理論ないし概念枠を彼らは持っている」と言えなければならない。

 

 さてそうすると、「翻訳不可能だが、それはそれで真であると分かる」ことは不可能だとデイヴィドソンは言う。

 

 ある文が真である(真理条件をもつ)ということは、文に含まれる単語や関係を表す言葉によって表現されるものが、ある状態に適合していることを示さねばならない。デイヴィドソンは、真なるものはこれらの単語や関係を表す言葉から独立してはいない。

 

<私的メモ:文が真であることは、言語によって定義される状態によってのみ示される>

 

 真理条件の固定は翻訳の成功を要求するため、翻訳できないということは、真理条件を特定できないということだ。こうして「一つの同じ経験に複数の異なる概念枠が適合(fit)する。」という考え方が却下される。

 

P119
4、    異なる相貌をもつ同一の対象
 異なる相貌が同一の対象を捉えていることはあり得るだろうか。

 

 反転図形を例にとると、あひるとうさぎ両方に見える図は、単なる線描図形を含めて3つの相貌を持つ。

 

<私的メモ:異なる相貌が同一の対象を捉えていることはあり得る。>

 

 あるいはクワインのガヴァガイについて考える。根本的翻訳の場面の例として、現地人が三匹のうさぎを指してガヴァガイと言ったとする。さて、ガヴァガイとは何か。現地人のガヴァガイはうさぎの群れを指すのか、個別のうさぎを指すのか、あるいはうさぎと他の対象を同じ言葉として捉えたものを指すのか、夜と昼のうさぎを区別したものを指すものか、様々な可能性があり、われわれがうさぎと認識しているものを示しているかどうかはまったく分からない。

 

<私的メモ:根本的翻訳においては、同時に見ている現象が同一の対象を捉えているかどうかはまったく分からない。>

 

 この様にわれわれと現地人が指し示すものが「同一の対象」であることが分からない場合、そこにはただ単に相貌が立ち現れているだけだと言える。

 

P121
5、    立ち現われ
 われわれが物事を知覚し、想起し、予期し、あるいは想像し、思考する。そのときの物事の現れを大森荘厳は「立ち現われ」と呼んだ。ただし、著者の言う「立ち現われ」は大森には受け入れられないだろう。このことは後に解説する。

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷