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哲学入門(バートランド・ラッセル著)13章 メモ(7)

 ラッセルの哲学入門(参考1)13章「知識、誤謬、蓋然的な見解」の、抜粋と読書メモの続きです。

 

P168、1行~P168、11行
 しかしこの種の自明性は、たとえ真理を保証しても判断が真であると確信させてはくれない。これはどんな判断についても言える。
例えば「太陽が輝いている」という一つの複合的事実を知覚し、それから「太陽が輝いている」という判断に移行することを考察してみる。知覚から判断に進む場合、知覚された複合的事実を分析する必要がある。つまり事実から「太陽」と「輝いている」を分離しなければならない。この分離の時、誤りを犯す可能性がある。事実が絶対的な自明性を持っていても、それは判断が真であることを保証しない。しかし前章で説明したように複合的事実の各項が一つの関係によってつなげることが可能で且つ対応するのであれば、判断は真である。

 

注釈第13章(42) P217~220
 「この種の自明性は、たとえ真理を保証しても判断が真であると確信させてはくれない。」をどう解釈すべきか。『プリンキピア・マテマティカ』序章第二章三節から。

 

***(はじめ)***
 複合的対象は知覚することができ、私たちは項と関係を判断する。これは「知覚判断」と呼んでよい。知覚判断は複合的対象と知覚者という二つの項から成る。複合的対象が真ならば、知覚判断は正しい。
 しかしこれは「知覚判断にみえる判断は間違っていないと確信する」ことを意味しない。何故なら、知覚者は「知覚した対象をただ分析したにすぎない」と、(分析していない場合においても分析したにすぎないと)間違って考えてしまうかもしれないからだ。真理は「判断となっている概念的に分節化された思考に対応する複合的なものが存在する」という事実からなるものと定義される。
***(おわり)***

 

 知覚者が知覚された内容を知ろうとするときは事実を注視せねばならないので、その知覚されたものは一つの判断となってしまう。従って『プリンキピア・マテマティカ』と『哲学入門』から得られるラッセルの見解をつなぎ合わせると、次の様になる。
 
 判断が第一種の自明性を持つとき、それは知覚を注視することで形成される。知覚が正しいとき、私たちは正しい知覚判断を行っていると言える。
 しかし、ある判断が知覚を注視するだけで形成されたものかどうかを知ることはできない。そして我々はその判断と事実が対応しているかどうかを自分で確かめることは出来ない。
 何故なら、我々は事実の注視から判断が形成される過程を意識しなければならないが、(事実を注視することは)我々が事実そのものではなく知覚判断を行っていることになるからである。知覚判断の形成過程は、我々が自覚することができない。よって知覚を直接の原因として形成されたと知覚者が思うすべての判断は、事実の知覚から形成されたものとは限らない。

 

<読書メモ>
 急に難しくなってしまった。更に注釈がびっしり書いてあって驚いた。

 ともかく、どうもぴったりと当てはまる様なたとえ話が思い浮かばない。私の得意なお化けのたとえ話(暗闇の物音を幽霊だと判断してしまう話)が辛うじて引っかかるかもしれないが、どうも芯を食っていない。錯覚や決めつけの話でもなさそうだし。

 

 芯を食っていないついでに、間違っているかもしれないが、私はこのラッセルの話から仏陀の認識の話を連想したので書きとめておく。

 

 ラッセルは知覚判断の過程を知覚者が意識することは不可能だと述べたが、仏陀はどうもそれが出来たのではないかという気がする。というのも、仏陀の言う解脱に至るには、知覚と判断を切り離すことが必須だからだ。

 

 仏教では、意識は感覚器官に心的なものを加えたものが外的対象に対して行う反応あるいは返答であるとする。意識は対象を認知しない。意識は対象が存在することに気付く一種の感知である(参考3、P68)
 それを突き詰めた仏陀は、執着を意識から引き剥がすことによって「あたかも母が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。」(参考4、P38)という境地に至る。母がわが子を愛おしいと思う同じ愛おしさでそのへんを飛んでいるやぶ蚊を見るのである。なんだそりゃ。
 我々が普段無意識に行っている命の重さの大小の判断を、仏陀は行わない。命あることと死ぬことという事実だけをただ見つめる、生と死の二つに意味をおかず、優劣の判断をしない。まるで慈悲回路を搭載したスーパーコンピュータである。

 

 話は元に戻るが、仮に知覚判断の過程を意識できたからといって、ラッセルの言う第一種の自明性が担保できる訳ではない。私はただ仏陀ラッセルが無理だと言った知覚判断の過程を意識することが可能だったのではないかと思っただけだ。

 

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 ブッダが説いたこと ワールポラ・ラーフラ著、今枝由郎訳、岩波文庫、2019年第7刷
参考4 ブッダのことばースッタニパーター 中村元訳 ワイド版岩波文庫、2014年 第24刷