作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第7章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。本記事は7章の後半(P108 ~P112)について抜粋する。ここから著者はデイヴィドソンへの反論を始める。反論のポイントは著者の考える「相貌」である。

 

 以下、本書を抜粋する。

 

P108~
 デイヴィドソンの考え方は「外延的」だ。

 

 概念とは、個々の対象の集合を形成するものだ。異なる概念を持つ人々は、異なる集合を形成している。この場合の集合それ自身は「外延」と呼ばれ、その集合を規定する性質ないしその概念の意味内容は「内包」と呼ばれる。例えば、「18歳以上の日本国民」と「選挙権を持つ日本国民」の外延は同じだが、内包は異なる。

 

 <私的メモ: カントの言葉に「物体はすべて延長を持つ」(参考2)というものがある。この延長は外延性と訳されることもあるが、どうにも意味が分からない。しかし、カントの「物体はすべて延長を持つ」はここで言う「外延的」であり、カントの「物自体」(参考2)はここで言う「内包」と対照させて考えてはどうかと思った。ただしこの対照は物自体という形而上的なものを勝手に想像するという超越的視点に立っているので、合っているかどうかは分からないが。>

 

 世界は単に外延的なだけではなく内包(意味)的な側面もある。このことを世界は「相貌」をもつと(著者は)言う。

 

 例えば猫と掃除機を同じ集合として捉える概念枠を理解するには、単に集合の編成を変えるだけではなく生き方を変える必要がある。概念枠が変わるということは相貌が変わることであり、相貌が変われば対象も様変わりする。

 

 デイヴィドソンは組織化の違いに意味を持たせるためには異なる組織化のベースとなる共通の対象が必要だと主張した。著者はそれを否定する。異なる組織化に共通の対象など必要ない。世界は異なる組織化に応じて端的にその相貌を変えるのである。

 

 概念枠は世界に意味を与えるとすると、何に意味を与えるのかと問われる。概念枠中立な何かだと答えれば、理解不能だと言われる。概念枠中立な何かも概念枠によって捉えられるものだと説明すれば、そのためには幾つかの概念枠が共有されていなければならない(等しい概念枠が必要)と応じられる。

 

 そこで著者は、概念枠は世界に意味を与えるものではないと答える。世界は様々な相貌から成るが、その相貌を担う何かは必要ない。何かが相貌を持つのではなく、単に相貌があるのだ。

 

P111
  著者は「枠組みと内容の二元論」というドグマを引き受けない。相貌は世界に端的に立ち現れるからだ。

 

 デイヴィドソンは、概念枠が経験ないし世界を組織化することだとすれば、共通の対象を取り出す共通の概念が必要であり、それはすでに翻訳不可能ではないと批判する。

 

 これに対し著者は、異なる組織化は異なる相貌として捉えられるものであるので共通の対象を必要としないと答える。

 

 しかし著者の説は、「翻訳不可能であるのにどのようにして相手が我々とことなる相貌を捉えていることがわかるのか」、「翻訳不可能なものが異なる概念枠だと言えるのはなぜか」という問いにまだ答えていない。つまり議論は振り出しに戻ったに過ぎない。


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷
参考2 純粋理性批判(上) カント著、篠田英雄訳、岩波文庫、第72刷