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哲学入門(バートランド・ラッセル著)13章 メモ(3)

 ラッセルの哲学入門(参考1)13章「知識、誤謬、蓋然的な見解」の、抜粋と読書メモの続きです。今回は長いです。夜更かししちゃいました。眠いです。私の文章も変です。

 

P162、14行~P164、15行

 直接的知識を調べる前に派生的知識の定義について考察する。

 

 派生的知識の批判として「派生的知識の定義は知識を不当に制限する」というものがある。一般的に直観的知識から推論される信念は、論理的な過程を経た推論は為されていないのが通例である。

 

 例えば、新聞で「王が死んだ」と報道されたとしたら、それは私たちが「王が死んだ」と信じることのよい正当化となる。何故ならそれは王が死んでいないときには為されない報道だからだ。そうだとすれば、「新聞が王が死んだと主張している」という私たちの信念も正当化される。

 

 この信念は、見ることで得たセンスデータを元にした直観的知識によるものだ。この知識は文字の読めない人には意識されないし、文字を覚え始めた子供は字の形から苦労して意味へと意識が移る。しかし、読みなれた人は文字からすぐに意識へと移る。しかもその知識が「印刷された文字を見ること」というセンスデータから得られたものだと気付くこともない。

 

 仮に文字から意味への移行が推論できるとしても、実際に読みなれた人は論理的推論という作業をしていない。しかしだからと言ってその人が新聞の報じる王の死を知らないとは言えない。

 

 直観的知識の結果の中には、直観的知識と論理的つながりを持ち、かつ知識を持っているかどうかが問われている人が自分の信念をふりかえることで、その論理的つながりを意識するようになりうる信念がある。

 

 つまり、派生的知識が単なる連想であっても有用な論理的推論であっても連想から関連に気付くことが出来た場合であったとしても、私たちは直観的知識の結果として得られたものはすべて派生的知識と認めなければならない。

 

 ある信念から別の信念に移行するには、論理的推論だけではなく、前述の文字から意味への移行のような「心理的推論」もある。この「心理的推論」が発見可能な論理的推論と並行してある場合、派生的知識の一つとして認めることとする。

 

 ここで発見を行うためにどれだけの反省が必要なのかわからないという問題が発生する。すると「発見可能」が曖昧であるという理由から、派生的知識の定義は厳密ではなくなってしまう。実際、知識は厳密な概念ではない。知識と「蓋然性な見解」の境界は曖昧であるため、誤解を招かないためにも、そもそも知識に厳密な定義を求めるべきではないのだ。

 

<読書メモ>

論理的推論 logical inference

心理的推論 psychological inference

発見可能  discoverable

反省 reflection

厳密な概念 precise conception

蓋然的な見解 probable opinion

 

 なんだこれ。「知識は厳密ではない」なんて、ここまで積み上げたものを一気に崩されたような気分だ。整理しよう。

 

 センスデータから得られた直観的知識、ここでは目に映る文字だとする。この直観的知識が単語、文節、文章と推論されて意味となり派生的知識となる。しかしこの推論は文字を読みなれた人にとっては心理的推論と言う、作業のなされない推論となる。心理的推論には他にも思いつきとか連想とかそこに至る過程が「意識されない」ものを含む。そこに後付けの論理的推論が発見可能だとしても、「その発見自体どれだけの反省が必要なのかが分からない」ため、直接的知識と派生的知識の境い目は曖昧なのだ。つまりそれは知識と蓋然的な見解の境い目が曖昧だということだ。よって結論として、知識は厳密な概念ではないことになる。

 

 うわーなんだこれ。ラッセル先生は8章で「アプリオリな知識」と言ってたよね?いや待てよ、先生は「正しく語るなら、アプリオリな知識はすべて心的世界や物理的世界に存在しないものに関わる」「(アプリオリな知識は)名詞以外の性質や関係といったもの(参考1、P110)と言ってるのか。つまり性質や関係も厳密ではないってことなのか。 

 いや待てよ、心的世界の幾何的な形や上とか中とか間とかの位置関係が厳密じゃないとすれば幾何学は成り立たないような気がするし。

 そもそも「どれだけの反省が必要なのかが分からない」ってどういう意味だ?結果が同じでも後付けで論理的推論したものは検証が難しいってことか?なんで?

 私が理解できない部分は本章の残りで解説されるだろう、きっと。頼むよラッセル先生。

 

 話は変わって、カントはこれをどう言っているかというと、知識は感性により得られたものを悟性により判断したものであり、その悟性の判断にはアプリオリな形式があるとしいる。ラッセルの言うセンスデータを面識するところまでが感性で、知識に再構築するのは悟性の働きだ。その悟性の働きには幾つかのパターン(形式)があると言っており、それを考察することで悟性の限界を示している。そしてこの限界の向こう側に神とか自由とか永遠などの形而上の思考、すなわち理性があるという構造だ。

 つまりカントは判断の形式から認識の限界を明らかにし、一方ラッセルは知識の厳密性から確実なものの限界を明らかにしようとしているのではないかという気がする。

 

 蛇足ですが、前期抜粋の下線部は英文にはありません。翻訳の高村先生のサービスで追加された文章です。お蔭で「信念が別の信念を。。」の意味が良く分かりました。心して読みました!有難う御座います!

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷

参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm