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「語りえぬものを語る」 読書メモ(第7章、その1)

 タイトルの書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。本記事は7章の前半部分(P102~P107)、デイヴィドソンの「異なる概念枠を考えることはできない」という主張の解説について抜粋する。

 

P102
 デイヴィドソンの議論は「もし概念枠があるとすれば」という背理法の仮定に基づく。

 

 もし概念枠があるとすれば、その基準は言語体系にはない。何故なら同じ言語を共にする共同体は同じ認識を共有しているので、言語が同じなら概念枠も同じであり、言語が異なれば概念枠も異なるはずだ。

 

 仮に二つの言語が完全に翻訳可能であればそれは実質的に同じ言語であるし、概念枠も等しい。故に二つの言語が完全に翻訳可能でない場合にのみ両者は異なる概念枠を持つ。

 

 しかし「二つの言語が翻訳可能ではない」という言い方は成立しない。「翻訳不可能な言語」は矛盾する概念である。よって「異なる概念枠」も成立しない。翻訳不可能であれば言語ではない。

 

 概念枠は経験ないし世界を分節化し組織化するものだとされる。つまり、異なる概念枠を認識するためには内容は分からなくても、相手が何かの組織化を行っているらしいことがこちらに分かっていることが必要だ。しかし組織化を行っていることが分かるには少なくとも相手の言語をある程度翻訳できていなければならない。

 

 概念枠を主張する人は「概念枠がなければ世界はただの混沌だ」、「概念枠は混沌に意味を与える」と言う。例えば色は本来連続的なスペクトルだが、赤や青は、概念枠が連続したスペクトルに閾値を設けること(分節化)によって区別すると説明する。

 

 しかし、「連続スペクトル」の様な超越的視点はどの概念枠がもち得るのだろうか。

概念枠を主張する人(相対主義者)は、概念枠を通じてしか他の概念体系を認識できないとも主張する。ただしこれは隠れた超越的視点を前提とする主張であり、相対主義者の初歩的な誤りである。
 
P106 
 相対主義者が認めねばならないことは、内在的な視点に立つなら概念枠以前の経験的内容に実質を与えることはできないということだ。

 

 だか、そうであるならば、異なる概念枠によって組織化される何かは、それ自体がなんらかの概念枠を経て対象化されたものでなければならない。そして組織化のベースとなる対象を与えるその概念枠は、異なる概念枠の間でも共有されていなければならないはずである。

 

 このように、「組織化」とは共有された概念枠によって成立する。組織化とは翻訳可能性に立脚したものだ。従って、翻訳不可能な言語は組織化も不可能であり、そこに「異なる概念枠」を見出すことも不可能となる。

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷