作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第11章、その2)

 

 

本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。本記事は11章の註に関する。

 

 以下、本文抜粋。抜粋といってもかなり元の文章とは異なる。これが私の理解の限界だ。

 

P191

 1、行為空間と相対主義

 

 著者の立場は相対主義である。ここには二つの課題がある。一つはすべてが相対的だとする命題は絶対的なのかという相対主義のパラドクスをどう克服するか。もう一つは相対主義が不整合で理解不能とするデイヴィドソンの批判をどうクリアするかだ。

 

 一つ目について。反相対主義や絶対主義は誤りだが、相対主義であっても「すべてが相対的だという命題には絶対性がある」という(ややパラドキシカルな)命題で克服したいと著者は考える。「すべてが相対的」という主張が絶対真理性を有してしまうことを避けるため、「相対主義は語りえない」と表現した。ただし、その語りえなさについては、生き方や相貌といった面から浮き彫りにしていきたいとする。

 

 二つ目について。デイヴィドソンの批判はクリアしたと言えるので、ここで整理しておく。

 

 自分と異なる概念枠を持つ相手を「他者」とすると、「論理空間の他者」と「行為空間の他者」の二通りがいる。(行為空間の他者は私の論理空間に翻訳可能だが、)論理空間の他者の言語は私の論理空間に翻訳することはできない。しかしここで著者は言語の翻訳可能性だけに限定せずに、習得可能性としてデイヴィドソンの批判に応答した。習得以前から習得以後への運動に伴い、翻訳不可能が過去形で語り得る状態、即ち異なる概念枠があったと過去形で語り得る状態が来るかもしれない。

 

<私的メモ: デイヴィドソンは現在の時間において翻訳できないことは知り得ないと述べており、この点において著者は同意する。しかし、時間が経過すれば翻訳できるかもしれないとし、これを習得可能性と呼ぶ。我々が異なる概念枠を認めるのは、過去に関することのみとなる。

 私はこれを他者の理解に関する話に拡大解釈したい。私にとって理解不能で怒りを覚えるような言動をする人に対しては、瞬間的に拒否の感情が生まれる。しかし、それは概念枠が異なるだけかもしれない。その人に怒りを覚えたからといって、その人を永遠に拒絶することは私にとって異なる概念枠を取得する機会を永遠に失うことを意味する。>

 

P194

2、概念所有の深さ

 

 囲碁における「厚い」という概念や人の在り方における「誠実さ」という概念は、他の要因との連関性や洞察の深さによって、理解の深さの段階が幾つにも生じる。

 

 行為空間は論理空間の部分集合であるが、そこに明確な境界は存在しない。論理空間内に概念所有の「パースペクティブ」があると言った方が良い。論理空間に存在する概念は、私にとっての「近さ―遠さ」がある。

 

P196

3、世界像

 

 世界像とは、「探求の前提としてわれわれが暗黙の裡に受け入れている世界のあり方」である。

 

 縄文人の食べ物を探求するとき、縄文人が何かを食べて生きていたということは暗黙の了解であり、これを世界像と呼ぶ。

 

 ウィトゲンシュタインは言う。「私の世界像は、その正しさが確認済みのものではなく、私がその正しさを確信しているものでもない。それは(単に)私が受け継いだものだ。(しかし)真偽の区別はその世界像を背景に為される。」

 

<私的メモ: 世界像の定義は曖昧であるため、これを真偽の前提とするには注意が必要だ。本書に限らず真偽や真理について記述される時、その曖昧さについてはいつも振り出しに戻る感がある。>

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷