作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第12章、その1)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といいながら、私の理解を反映しているので文章は崩れて読み難くなっているかもしれない。本記事は12章に関する。


 以下、本文抜粋。

 

P199
【これからも蚊に刺されたらかゆくなるのだろうか】
 ウィトゲンシュタイン帰納という推論はあり得ないとする。未来の出来事を類推するのは不可能であり因果連鎖は迷信であると言い、ヒュームのネガティブな側面を受け継いでいる。


 ヒュームのネガティブな側面とは帰納の可能性の否定であり、ポジティブな側面とは帰納的推論が本当は何をしているのかを明らかにしようとする。

 

 まずはネガティブな側面から。

 

 過去に起きたことは未来も起こるという考え方を「斉一性の原理」と呼ぶ。これを信じる根拠は何か?斉一性の原理を用いて斉一性の原理を説明することは論理的に間違っているとすれば、我々はその根拠を失う。斉一性の原理は迷信である。


ただし、これは経験に反する結論である。

 

【論理空間と帰納
 「斉一性の原理は迷信だ」という結論に至る理由を、論理空間と行為空間を用いて説明するとこうなる。斉一性の原理は、我々の行為空間に限って成立する原理だと言える。蚊に刺されればかゆくなり、手を離せば物は落下することを我々は知っているが、そうでない可能性は抹消しているにすぎない。行為空間の限定を解除した論理空間全体においては斉一性の原理は成立しない。論理哲学論考はそういった論理空間を対象として書かれている。
 
 <私的メモ キェルケゴールは「神には一切が可能である。即ち一切の可能性を神と呼ぶ」と述べた。論理空間では一切が可能だとすれば、そこは神の世界に似ている。形而上と言い換えても良さそうだ。> 

 

【習慣】
 懐疑論者としてのヒュームも論理空間に立つ。しかし論理空間に安住の地を得た「論理哲学論」のウィトゲンシュタインと違って、ヒュームは再び行為空間に立ち戻ろうとする。

 

 以下、ヒュームの言葉より。


 「推理や推論を加えることなく過去の反復から得られるものを「習慣」と呼ぶ。「現在の印象(知覚していること)に続いて生じる信念は習慣という起源にのみ由来する」ことは真理と言っていい。


 我々が発見しうるような結合が最初から対象間にあるというのは間違いだ。ある対象の出現から他の対象の存在を推理可能だという状態は、想像に作用する習慣という原理のみに起因する。」

 

 習慣はいわば思考の癖であり、条件反射的な身体反応であり、動物の本能的習性と同じである。人間の自然科学をはじめとする知的探求の根底はこういった動物的身体反応に支えられている。

 

<私的メモ: かなり崩して抜粋したので原文を破壊しているかもしれない。とにかく私の理解は上記の通りだ。>

 

P204
【世界像としての斉一性の原理】

 著者はこのヒュームの洞察に敬意を払いながらも百パーセントは同意できないとする。ヒュームは人間を帰納する動物だとしているが、それは事柄の半分にすぎない。帰納は世界像に関わっているからだ。


 斉一性が成り立たない事象に出会ったとき、人は斉一性の原理が成立しなかったとは考えないで、斉一性の原理を維持するように法則を修正する。捉えていなかった法則があったのだと反省する。我々の探求において斉一性を反証することはあり得ない。すべての探求は過去と未来の斉一性を保持するように為される。これが我々の世界像なのだ。


 このことは習慣が無効であることを意味しない。なぜなら未来が過去の延長であるという習慣は、それを探求の指針として受け入れたとき、我々の探求がどのように為されるべきかを指示するものであり探求を導く規範となるのだ。

 

P207
【行為空間の中で】
 行為空間とは斉一性による習慣に囲い込まれたものだ。そして斉一性の原理を世界像とした場合、斉一性に反する可能性は抹消される。


 ここではじめて「根拠のある帰納」と「無根拠な帰納」が区別される。「右足から玄関を出ると事故に会わない」はわれわれとしては「無根拠な帰納」となる。


 他方、行為空間に立つならばヒュームの言う習慣ですべてを片づけることは的外れになる。地震雲地震の関係を探求する場合、証拠を挙げて法則を合理的に正当化する作業が必要となる。地震雲地震の関係を、ヒュームが「そう考える習慣が身についているからだ」という一言で済ませることは(行為空間の中に限っては)的外れとなる。


 しかしながら、我々が広大な論理空間の片隅である行為空間で生きることの根拠はない。習慣は動物的に身についたものだし、(斉一性に基づく)世界像を引き受ける根拠もない。われわれは(単に)証拠の支えを信頼しているだけであり、証拠は行為空間を支えるものではない。


 一寸先は闇の論理空間の中において、われわれは「根拠なき生き方」をすることによって一寸先は闇ではない生き方をしている。

 

<私的メモ: 根拠ある帰納と無根拠の帰納の区別は難しい。熱狂的に信じられている陰謀論から人を引き戻すことは至難の業である。かといってすべてを証拠と合理で説明する世界はドグマ偏重に陥りやすい。著者の言う通り、根拠はどこにもないのだろう。>


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷