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哲学入門(バートランド・ラッセル著)11章 メモ(9)

 ラッセルの哲学入門(参考1)11章の、抜粋と読書メモの続きです。

P143、10行~P144、4行
 記憶は間違っていることもある。記憶の対象が間違って信じていることとは異なる場合だ。これらは関連しているが異なっている。
 例えばジョージ四世は自身で何度もワーテルロの戦いに参加したと言い続けたため、自らそれを信じてしまったと伝えられている。彼が自身の主張を信じたとすれば、その信念はそう主張したという記憶からの連想によるもので、本当の記憶ではない。
 おそらくすべての記憶間違いは前述の様に説明される。つまりそれらは厳密には記憶の例ではない。

 

<読書メモ>
 信念に基づき事実と異なる記憶の対象を繰り返し主張すれば、(それが第三者に対する発言であっても、自分自身に対する説明であっても)その説明したという事実をもとに、本来の記憶の対象とはことなる記憶が形成されることがある。
 なお、信念と真偽についての議論は12章に持ち越される。

 

 

P144、5行~14行
 記憶の例から自明性には度合いがあることが分かった、自明性はあるか無いかの二択ではない。確実という度合いから、微かなものまである。
最も高い自明性を持つものは、知覚の真理やいくつかの論理学の原理、直接的に記憶された真理である。
(次に)それ以外の論理的原理、たとえば「真なる前提から帰結するものは真でなければならない」という命題の自明性が高く、帰納原理はそれよりも更に自明性が低い。
 記憶は時間が経つにつれ、そしてより微かになるにつれ、自明性を次第に失う。
 論理学や数学の真理は、複雑になるほど自明性が弱くなる。
 倫理的なもの、美しいものの価値判断の自明性はそれほど高くない。

 

<読書メモ>
 記憶や、倫理的、美しさの様な個人の能力、信念、価値判断に関するものは自明性(信頼性)に程度の差があるというのは納得である。しかし、数学の真理は複雑になればなるほど自明性(信頼性)が低くなるというのはどういうことだろう?私は内容を理解していないが、ラッセルのパラドックスみたいなことだろうか。
 本論からは逸れるが、ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考ラッセルの自明性に関する記述(参考3)があったので紹介する。
「五・四七三一 ラッセルは自明性について何度も語っているが、自明性など論理においては不要でしかない。理由はたんに、言語自身があらゆる論理的誤謬を避けるからである。――論理がア・プリオリだというのは、論理に反しては思考不可能ということにほかならない。」
 論理それ自体が論理的間違いを回避するために存在するので「論理の自明性」という言い方は間違ってるし、論理に自明性の高低があるなんてことは無いよラッセルさん、っていうことか。ちなみに自明性は、ラッセル原文もヴィトゲンシュタインの英訳もself-evidenceと表現している(参考2、4)
 ヴィトゲンシュタインラッセル批判については感想を持てるほど読んでいないので、コメントはできない。引用した理由は単なるメモ書きだ。

 

参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm
参考3 論理哲学論考 ヴィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳、岩波文庫、2018年、第23刷、P96
参考4 https://www.gutenberg.org/files/5740/5740-pdf.pdf