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哲学入門(バートランド・ラッセル著)12章 メモ(8)

 ラッセルの哲学入門(参考1)12章「真と偽」の、抜粋と読書メモの続きです。何度も読みましたが、理解できた気がしないですね。できるだけ素直に読もうと思います。


P150、15行~P151、1行
 斉合性による真理の定義のもう一つの反論として、「斉合性」の意味をもとに真理を定義している、というものがある。しかし実際は「斉合性」のほうが論理法則が真であることを前提としている。
<読書メモ>
 本書(参考1)P214の脚注(37)によると斉合性の定義は、「命題や信念が互いに矛盾しないだけではなく、互いを支え合い、蓋然性を高めあっていること」、「たんなる矛盾のなさではなく、信念が支え合うという事態が念頭に置かれている」とある。まずこれが前提である。

 

P151、1行~9行
 二つの命題は、ともに真のとき斉合的であり、どちらかが偽であるときに不斉合である。ところが二つの命題がともに真であるためには、矛盾律が必要だ。たとえば「この木はブナである」と「この木はブナではない」という二つの命題が斉合的ではないのは、矛盾律があるからだ。
 しかし、矛盾律は偽だという想定を選択すれば、いかなる信念も他の信念と不斉合ではなくなる。それゆえ論理法則は斉合性のテストの枠組みであって、論理法則そのものを斉合性のテストで説明することはできない。

<読書メモ>
 いやあ難しい。
 論理法則は斉合性を元に導かれるのではなく、斉合性のほうが論理法則を元に導かれる。そして論理法則とは矛盾律である。
 ここまでは良いのだが、そこから斉合性は真理の定義ではないという結論を導くことができるのか。ここがすっきりしない。まったく斉合しない二つの命題が両方とも真であることがある場合、斉合性は真理の理由にはならないということなのだろう。
 ブナの木の命題の代わりに、「私は自由だ」という命題について考えてみたい。この命題は、私が私自身が自由だと考える信念によって支えられている。

 「自由かどうかはあなたの思い込みですよね」と言われそうだが、思考のみによって真理に辿り着けるか(本書(参考1)P149、9~11行)という議論なので思い込みで良いのだ。
 一方で「私は自由ではない」という命題と、それを支える信念についても十分考えることができる。そうすると矛盾律によればこの二つの命題はどちらかが偽となってしまう。しかし、「私は自由だ」も「私は自由ではない」も両方私の真実であるとすれば、ラッセルの言い方では「矛盾律が偽だという想定を選択」することになる。つまりどんな信念も他の信念と斉合することがあり得るので、矛盾律が成り立つから斉合するということはあっても、斉合することを理由に矛盾律が成り立つことを示すことはできない。
 
 どうも消化不良だが、ここまでとしておきたい。

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm