作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)13章 メモ(10)完了

 ラッセルの哲学入門(参考1)13章「知識、誤謬、蓋然的な見解」の、抜粋と読書メモの続きです。13章はこれで完了です。

 

P171、6行~16行
 同じことが哲学的仮説にも言える。単独では疑わしく思える蓋然的見解も、一群の蓋然的見解の秩序を整え、斉合性を備えればそれらはほとんど確実となる。
 このことは夢と覚醒時の区別の問題にも適用できる。もし夢が覚醒時と同じ程度に斉合性を持てば、私たちはどちらを信じれば良いか分からなくなるに違いない。しかし実際は斉合性によって覚醒時だと認識できる。
 しかしこの斉合性テストはそれ自体では絶対的な確実性をもたらさない。確実となるには斉合的な信念体系のどこかに前もって確実なものがあるときだけだ。従って、蓋然的な見解をいかに組織的に整えても、疑いようのない知識に変化することはない。
 

<読書メモ>
 ラッセルの最初の問い「理性的な人なら誰でも疑えない、それほど確実な知識などあるのだろうか。」に対し、ひとまずはここで解が述べられた。答えはNOだ。NOなのだが、今ひとつはっきりしない。ちょっと整理してみる。

 

 如何に完全な信念体系であっても、前もって(言い換えれば体系の外部に)確実なものがなければ、如何に精緻に組み上げられた体系だとしても、それは循環論法に陥っているだけなのかもしれない。

 では体系の外にあって確実なもの、確実な知識とは何だろうか。知識はどこまでいっても連続的な自明性の大小で表現されるだけであって、完璧に自明な知識にはたどり着けない。たとえそれが直観的知識であっても判断の過程が意識されなければ判定のしようがないからだ。
 命題が真であるためには、真である複合的な事実を含む必要がある。ただしそれは命題の外に知識として存在しなければならない。唯一確実なものといえば普遍であり、それは上とか下とかあいだとか関係を示す記号的なものだ。数学も関係の概念を扱うので普遍に準じているとして良い。前置詞や動詞は普遍、形容詞は比較においては普遍だ。しかし名詞はほぼすべてが普遍とは言えない。
 ただ、複合的な事実はどこかに必ず名詞を含まざるを得ない。そのため、結局複合的な事実の真偽は蓋然性や自明性の大小でしか語ることができない。カントが「物自体」という言葉でわれわれの認識の外側を説明しているのと同じように、名詞は私たちの認識の限界の外側にあるものなので、確実な知識の中に含めることはできないのかもしれない。

 はっきりしない理由はこうだ。

 この読書メモに書いたものは名詞を含む文章であり、確実でないものを使って確実でないことを説明しようとする循環論法に陥っている気がするからだ。

 

 もやもやするぜ!哲学っぽいぜ!

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm