作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)13章 メモ(9)

 ラッセルの哲学入門(参考1)13章「知識、誤謬、蓋然的な見解」の、抜粋と読書メモの続きです。

 

P169、7行~P171、6行
 派生的知識のもととなる「前提」は、一定程度自明でなければならない。また、その前提とそこから推論される帰結との「つながり」も同様に一定程度自明でなければならない。

 

 たとえば幾何学上の証明は、公理が自明なだけでは不十分で、論証の各ステップでの前提と帰結の「つながり」もまた自明でなければならない。論証が難しくなるにしたがって「つながり」の自明性は少なくなり、証明の間違いが起こりやすくなる。

 

 「直観的知識の信頼性はその自明性に比例する」のであれば直観的知識と派生的知識の信頼性は連続的に推移し様々な程度を持つことになる。

 

 以上のことから、信念が真であるときそれが知識と言えるのは、直観的であるときかあるいは直観的知識を前提として論理的もしくは心理的に推論されたときのどちらかである。信念が真ではないときは誤謬だが、信念が真でも誤謬でもないときは「蓋然的な見解」となる。従って一般的に知識として通用している信念はどれも蓋然的な見解である。

 

 蓋然的な見解の確からしさを高めるには斉合性が助けとなる。斉合性は真理の定義には使えないが、真理の基準としてなら使える。複数の蓋然的見解に斉合性がある場合、それらを一つにまとめた蓋然性は、それらが個別のときよりも大きくなる。科学的仮説が蓋然性を得るのもこうした仕方による。ある斉合的な体系の一部となることで単独のときよりも蓋然性は高くなる。

 

 

<読書メモ>
 「斉合性は真理の定義には使えないが、基準としてなら使える」という記述は12章のP151、10~12行(参考1)の「斉合性は真理の意味を与えないが、テストとしてなら使える」という記述の繰り返しだ。私は、当ブログ12章(8)を書いた時は良く理解していなかったのだが、ここでようやく理解することができた。

 真理にしても知識にしても、自明性の高いものから低いものまで連続的に存在するということが前提であり、これらの自明性の高低を決めるのに斉合性が役に立つということなのだろう。

 例えば相対性理論アインシュタインが発表した直後は、たとえそれが論文内で高い斉合性を示していたとしても今このブログを書いている時代と比べれば自明性は低かっただろう。しかしその後、世界中の研究者が実験と検証を繰り返しその体系を補強したことで数多くの蓋然的な見解が集まり、それらの斉合性により自明性が高まったと言えるのだろう。


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm