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哲学入門(バートランド・ラッセル著)13章 メモ(2)

 ラッセルの哲学入門(参考1)13章「知識、誤謬、蓋然的な見解」の、抜粋と読書メモの続きです。

 

P162、2行~13行
 (前述の「前提が真であっても間違った論証過程から導かれた結果は知識とはいえない」を受けて、)「知識とは真なる前提から妥当な論証過程を経て推論されたものだ」とも言えない。
 これは定義として広すぎると同時に狭すぎる。
 その理由として、「前提が真である」だけでは不十分だということと、十分であるためには「前提が知られている」ことが必要となる。
例えばある人が、首相の名前は必ず名前がBで始まると推論したとしても、その人はその推論による結果を知っているとは言えない。そうなると、「知識とは知られた前提から妥当な論証過程を経て推論されたものだ(既知の前提から有効に推論されるものだ)」と修正しなければならない。
 しかし、「知られた前提」の意味が既に分かっていることを前提にしているのでこれは堂々めぐり(循環定義)であり、定義としては不十分だ。せいぜいそれは直観的知識に対する派生的知識を定義するので精一杯だ。つまり「派生的知識とは、直感的に知られている知識から妥当な仕方で推論されるもの」と定義されるにとどまる。この定義に形式の欠陥はないが、直観的知識を定義を調べる必要がある。

 

<読書メモ>
 知られた前提  known premisses
 堂々めぐり(循環定義)  circular definition
 せいぜい   at best
 派生的な知識 derivative knowledge
 直観的な知識 intuitive knowledge

 

 「定義として広すぎると同時に狭すぎる」とはどういうことか。
 「広すぎる」という理由は「前提が真であるだけでは不十分だ」ということ、つまり示されていない他の条件で限定する必要があると理解できる。
 もう一つの「狭すぎる」については、今回の抜粋後半に書いてある。「前提」を「知られた」で限定する必要があるが、その限定によって得られる知識の定義はせいぜい「派生的知識」にとどまるので、この定義で知識全般を定義することは出来ない、つまり狭いということだろう。

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm