作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

哲学入門(バートランド・ラッセル著)14章 メモ(1)

 ラッセルの哲学入門(参考1)14章「哲学的知識の限界」の、抜粋と読書メモをはじめます。

 

P172、1行~P173、2行
 多くの哲学者が、形而上学的論証によって宇宙や宗教の真理や、物質が幻想にすぎないことや、絶対的な悪は存在しないことを証明したいと願っている。しかし(ラッセルは)そんな希望は空しいと思う。(なぜなら)形而上学から宇宙の知識は得られないし、論理法則によって導かれた存在の有無の証明は批判に耐えられないからだ。
 本章ではこうしたアプリオリな論証について考察したい。

 

P173、3行~P175、3行
 まずはヘーゲル哲学の説明を行う。
ヘーゲルの中心的テーゼとは、唯一無二の全体(The Whole)に達しないもの(≒全体以外のすべて)はいずれも断片的であり、(全体以外のすべては)世界の残りの部分によって補われない限りは存在しえないというものだ。


 あたかも比較解剖学者が骨の断片からその動物全体を理解するように、形而上学者は実存の断片から実存全体、あるいは少なくともその輪郭を見て取る。例えば実在の断片が幾つかあったとする。実在どうしは切り離されているように見えるが、隣の実在に鉤のように引っかかりながらつながり、最終的には宇宙全体が復元されるという考え方だ。


 そして断片が持つ不完全性は、思考の世界と事物の世界の双方に等しく見られる。
 断片はそれ自身の不完全さによって矛盾を生む。この矛盾は、元の観念をアンチテーゼに変える。この矛盾から脱するには元の観念とアンチテーゼを統合する新たな観念を見つけねばならない。しかしこの新たな観念にもまだ少しの矛盾は残っており、更に新しい観念を見つけ出す必要がある。こうして最終的に辿り着くのが「絶対観念」である。


 「絶対観念」は完全な実在を記述するのには適するが、その下位の実在は限られた視点から記述されたものであり、全体を網羅するものではない。ここから「絶対観念」とは、実在が一つの調和した体系であり、時間の中にも空間の中にも存在しない完全に合理的で精神的な観念だ。そこには僅かな悪さえ存在せず、闘争もない。代わりに永遠で変化のない精神的な全体がある。


 この世界は「絶対観念」の世界ではないと私たちは感じているが、それはまだ私たちが宇宙を断片的に見ていることに原因があるとヘーゲルは考えた。

 


<読書メモ>
 ここにはラッセルの理解するヘーゲル哲学の一つの側面が、分かり易くまとめてある。


 この後ラッセルによるヘーゲル批判が行われるが、それはあくまでラッセルの見解である。私はヘーゲルを読んでいないので、ラッセルの批判の真偽を判断できない。そこは肝に銘じ、「ヘーゲルって〇〇の部分が駄目だよね~」と語りたくなる誘惑に打ち勝たねばならない。お手軽な哲学入門書が数多く書店に並んでいるが、それらはあくまで哲学者の書いた本やその翻訳書を読むためのガイドだ。キーワードの知識だけ仕入れて分かったふりをすると、きっと痛い目に会うはずだ。入門書に罪は無いが、入門書だけで分かったつもりになる読者の態度の方には罪がある。


 だがしかし、私には時間が無い代わりに見栄がある。だから気付けばついついこういう態度をとってしまう。口に出した言葉は痛々しく響くだろう。どうにかならないものか。

 

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm