作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第6章)

 タイトルの「語りえぬものを語る」(参考1)ヴィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。

 

 <私的メモ:本章のポイントは真理の絶対主義と相対主義についてだ。後半は概念について。真理が我々の持つ概念によって判断されるのなら、真理は概念の差異をどう扱うかという話になる。
 ラッセルの説をクワインは否定し、更にデイヴィドソンクワインを否定するという話だが、順序が入り組んでいて一読しただけでは分かり難い。ただし、後半になるに従って知識が必要になるので、一般の読者向けには本章の構成が理解しやすいのかもしれない。
 章末の註に知識の補足があるが、これを理解するにも更に知識が必要だ。本書以外からも少しずつ知識を拾いつつ、地道に繋げる作業が必要なのだろう。

 以下、本書より抜粋。>


P83
復習。三つのタイプの言葉。
1)    主体主導型 「おいしい」 態度の表明 対象から遠いので真偽を言うのは不適切
2)    対象主導型 「赤い」   真理の相対主義は成立しない(本章で議論される)
3)    経験超越型 「霊魂」、「電子」 真理の相対主義が可能

 

 赤については真理の相対主義は成り立たない。これが(2)の対象主導型だ。二つの共同体で意味を共有しつつ真偽が異なることは起こりえないので相対主義は成立しない。しかし、モラ(白と暖色)とミリ(黒と寒色)だけの色概念しか持たない架空のタニ族を仮定すると、対象主導型にも相対主義の可能性が生じる。

 

 真理の絶対主義とは「すべての命題の真偽は立場によらず一定である」ことだ。例えば「青空が曇って灰色になる」は時代を超えて同じことを表現し得る。しかし、タニ族にはその概念がない。絶対主義者から見れば、タニ族は真理を把握する概念が欠如し、真理を捉え損ねていることになる。

 

 但しタニ族は困っていないので相対主義者はそれを欠如ではないと捉える。しかし、タニ族にはが青と灰色の概念が無いので、青から灰色の変化を変化と判断していない。思考と知覚は切り離せないので、我々は「青空が曇る」という思考を込めて知覚する。タニ族はその思考を持ち得ないとすれば、我々がタニ族の見ている世界を想像することは難しい。

 

 タニ族が「青空が曇る」という真理を捉えていないことを欠如と見るか見ないかで、絶対主義と相対主義は対立する。

 

P86
 「概念の相対主義」の説明。

 クリス・スウォイヤー
真理の相対主義の強いバージョン・・・真とされる命題が別の立場で偽とされる可能性を認めるもの
真理の相対主義の弱いバージョン・・・真とされる命題が別の立場で表現され得ない可能性を認めるもの。

 

 タニ族の事例は、対象主導型(色彩語)の概念は真理の相対主義の弱いバージョンを説明したもの。これを「概念の相対主義」と呼ぶ。ただし、「概念の相対主義」は対象主導型、主体主導型、経験超越型のいずれにも当てはまる。

 

P87
概念枠

 

 概念体系は世界を捉える一つの「枠組」として働くので、それは「概念枠」と呼ばれる。概念枠が異なれば世界の捉え方は変わるので、真理は概念枠によって異なり、相対的とされる。概念枠は、赤い眼鏡をかければ世界は赤くなるという例から、色眼鏡と例えられる。

 

 しかし、ドナルド・デイヴィドソンは「概念の相対主義」、「概念枠」を否定した。なぜ自分の眼鏡が赤いと分かるのか?以下に否定の内容を説明する。

概念枠は言語から構成されるので、言語が翻訳可能なら二つの言語圏は同じ概念枠を持つ。

 

 しかし、翻訳不可能ならば、なぜそれが言語と分かるのだろうか。原理的に翻訳不可能なものは言語ではあり得ない。そこに異なる概念枠があると期待することは幻想だ。

デイヴィドソンは概念枠を「枠組みと内容の二元論」だとし、「第三のドグマ」として批判する。

 

<私的メモ:以下、ラッセル、クワインデイヴィドソンに至る流れが説明される>

 

 ラッセルらが提唱する論理実証主義は意味に関わる領域と事実に関わる領域を峻別し、前者を哲学、論理学、数学、後者を科学の持ち分とした。更に経験主義として知識をすべて知識経験に基づけようとしていた。

 

 これに対しクワインはすべてを経験主義とすることで二つのドグマが生まれていると批判する。第一のドグマは「意味と事実の峻別」、第二のドグマは「一つの命題が単独で知覚経験と照合され、検証や反証がなされる」というもの。クワインはこれらを批判し「ドグマなき経験主義」として理論全体が経験の審判を受ける「全体論(ホ―リズム)」を提唱した。

 

 しかし、デイヴィドソンは「全体論」も経験主義のドグマである「枠組みと内容の二元論」を含むと批判した。

 

 概念枠を主張する人は、我々が概念枠(メガネ)を通して世界を見るという。あるいは概念枠によって世界を、ないし経験を組織化するのだとも言う。しかし、何が概念枠を通過するのか?

 

 デイヴィドソンは「概念枠が処理する以前の、組織化を待っている何か」は理解できないと言う。見出されるものはすべて概念枠によって処理済みのものだけだ。そんな概念枠に中立な何物かなど、理解不能だ。


P92

1、    語彙と概念所有
(略)
2、二つのドグマ
 論理実証主義とは、1930年代中心の哲学運動。自然科学的な認識を正当とし、それ以外を悪しき形而上学として切り捨てるもの。科学的認識とは第一に観察データに基づくもの。観察命題と理論命題の論理的関係が議論された。ラッセルとフレーゲ記号論理学がその中心で、論理と観察のみに依拠して人間の認識を捉えることがその基本テーマだ。

 

 しかし、論理実証主義では論理そのものの扱いと数学の扱いはそのテーマから外れる。そこで論理実証主義の立場は、意味に関わる領域と事実に関わる領域を峻別することだった。「AならばB」、「5+7=12」の「ならば」や「+」や「=」は我々がそれにどんな意味を与えたかに関わる。

 

<私的メモ: ラッセルの著書「哲学入門」(参考2)によると、ラッセルは関係を示す語は単独で真理を示すとした。事実(経験)の集合は、それらを関係で再構築(ブロックとモルタルの例え)して信念となり、その信念を慎重に検証することでその真偽が分かるとした。つまり、意味と事実を同じレベルに並べて二元論化したわけではない。>


 かくして「意味に関わる真理と事実に関わる真理を区別する」、「事実に関わる真理は観察と論理のみに基づいていなければならない」の二つの方針が生まれた。


2、    クワイン全体論(ホ―リズム)
 クワインは検証の対象は単独の理論命題ではなくさまざまな命題が体系を成す理論全体だとする。これは「検証の全体論」と呼ばれ、検証の対象が個別だとする論理実証主義は「検証の原子論」と呼ばれる。

 

 全体論によると、理論体系に不都合が生じた場合、一つの命題だけではなくどの命題を修正してもよい。例え論理や数学であっても改訂の可能性があるとする。ここから、「論理や数学は意味によって真であり、事実によって真である命題とは区別される」という第一のドグマは棄却される。

 

 第二に、論理実証主義は理論命題と観察命題を峻別して両者の論理的関係を考えたが、全体論によるとこの区別も絶対的ではない。論理実証主義によると観察命題とは経験から生じ、続いて観察命題によって理論命題が検証される。しかし全体論では理論全体が経験に適合したりしなかったりする。そして理論命題の中には経験命題も含まれる。命題体系全体が経験と擦り合わされる。よって理論命題と経験命題を峻別することはできない。よって第二のドグマは棄却される。

 

(おまけ・・・クワインにとって理論とは諸命題の体系であり、経験は命題的なものではない)

 

P99
 全体論では理論に不都合が生じたとき、内部理論のどれを改訂してもよい。すると、有る経験に適合する理論は複数存在する。これは「理論の決定不全性」と呼ばれる。

 

 デイヴィドソンクワインの考えを「概念枠」としたのもこの点である。例えば電子の存在が無いと仮定する理論体系があれば、電子の存在は認められないことになる。これは電子だけではなく一切の存在についても言える。猫も机も我々がどのような概念を持った理論を採用するかにかかっている。

 

 しかし、存在も非存在もどれも同じ経験に適合する。この経験は非言語的なものである。即ち、非言語的経験は「内容」でありそれに適合する理論が「概念(枠)」である。デイヴィドソンはこれを「枠組みと内容の二元論」として批判した。

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷
参考2 哲学入門 バートランド・ラッセル著 高村夏輝訳 ちくま学芸文庫 2018年第20刷(2005年初版)