作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その2)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P324
【因果と触発】
非言語的な体験の場は言語の意味規定を欠いているので理解の対象にはならない。

 

 私はただその体験の場に曝され、影響を受ける。非言語的な体験が原因となって反応が引き起こされる。それは因果的に見えるが、正確には因果ではない。因果関係は二つのできごとの間に立てられる。猫がジャンプして本が崩れたとき、本が崩れる原因は猫のジャンプである。しかし、非言語的な体験の場は分節化をもたないので(非言語的な体験の場は)原因となり得ない。ゆえに著者は「因果」ではなく、カントを意識しつつ「触発」と言う。

 

 カントはわれわれが知覚し認識する現象とは別に「物自体」という存在を想定していた。物自体とはわれわれが時間・空間の形式を与え、カテゴリーによって秩序づける以前のものだ。われわれは時間・空間の形式をもちカテゴリー化されたものしか認識できない。それゆえわれわれは物自体を認識することはできない。物自体は認識を超越したものとして存在する。

 

 著者は若い頃、観念論的傾向が強かったので「認識不可能な物自体というものを想定する必要はない」と考えていた。しかし今はそうは思っていない。著者の感覚として、物自体を想定する必要があるとしている。

 

 カントは現象に対するわれわれの認識は物自体に「触発」されたものであると言う。例えば猫を見た時、わたしの視覚は猫が原因で成立している。しかしカントに従うならば、それは「因果」と捉えることはできない。因果は、物自体に意味を与え、それによって現象を構成するカテゴリ―の一つでしかない。あくまで現象における秩序なのである。従って物自体と現象を因果のカテゴリーで捉えることはできず、「触発」と言われることになる。

 

 著者はこの「触発」という構図を非言語的な体験の場に対して見てとる。非言語的な体験は私のさまざまな反応の「原因」ではありえない。非言語的な体験は、われわれの反応を因果的に引き起こすのではなく触発するのだ。

 

 

<読書メモ
 篠田英雄氏の訳によるとカントは純粋理性批判(参考2)で「触発」という言葉を幾つかの場面で使っている。その例を以下に引用する。


 まず、空間においては以下の通り。
外的直観は、対象そのものよりも前にあり、また対象の概念は、この直観においてア・プリオリに規定せられうるというが、かかる外的直観が、客観[対象]によって触発せられてこれらの客観の直接的表象即ち直観をもつことになるという主観的性質として、従ってまた外感一般の形式としてのみ、認識主観のうちに存在するからにほかならない。(参考2 P93 より引用)

 

 次に、時間においては以下の通り。
主観は、自分自身をそれ自体直観するのではなく、また自発的に自分自身を直接表象するのでもなくて、内から触発せられる仕方に従って直観するのである。
――換言すれば、主観[『私』自体]をあるがままに直観するのではなくて、この主観が自分に現れる仕方に従って直観するわけである(参考2 P117より引用)

 

 人間は物自体を直接認識することはできないが、そこに空間という形式をあてはめることによって、空間の制約内で表象可能なものを直観できるという。あるいは人間は私自体を直接認識できないが、そこに時間という形式をあてはめることによって、時間の制約内で表象可能な自分を直観できるという。
 
 もう一つ、「因果は現象を構成するカテゴリーの一つ」だと野矢氏は書いているが、これについてもカントはもう少し詳しく述べている。
 
 カントによると人間の認識には感性、悟性、理性がある。感性は表象可能なものの直観であり、まだ言語化されていない。野矢氏による私秘的体験に相当する。悟性は体験を判断することにより生じるものであり、言語化され分節化された世界がそれに相当する。最後に理性は体験できないことを判断することにより生じるものであり、神、自由、魂の永遠の世界を認識しようとすることである。

 

 ただし、感性、悟性、理性いずれにおいても人間はア・プリオリな(経験によらない)形式を持っており、それゆえ認識が可能になっているとカントはいう。感性においては空間と時間、悟性においては判断の形式がそれである。因果も悟性判断の形式の一つだ。

 

 理性における形式については私の理解がまったく進んでおらず、よく分からない。悟性形式のカテゴリーに沿って解説されてはいるのだが、理性は「アンチノミー」(一つのことにおいて真と偽の両方が証明可能なこと)に踏み入ってしまうので単純ではなさそうだ。

 

 野矢氏の仕事はカント的仕分けを行うことではないので詳しく触れていないのは当然なのだが、野矢氏がカントに触れるときの表現は必要最小限でかつ正確を期さねばならず、更にご自身の見解を加えるというかなり大変な作業だと想像する。さらっと書いてあるのだが。>

 


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷
参考2 純粋理性批判(上)カント著、篠田英雄訳、岩波文庫 2020年、第72刷(1961年、第1刷)