作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第19章、その3)

 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は19章に関する。
 以下、本文抜粋。

 

P326
【非言語的な体験が言語を触発する】
 物自体に触発されて経験が成立するように、非言語的な体験に触発されて分節化された体験あるいは分節化された世界が成立する。だが、その成立は単純ではない。鍵は、非言語的な体験が発話も触発するということにある。

 

 例えば、「痛い」という言葉は非言語的な体験に「痛み」という意味を与え、「痛みの感覚」という言語的に分節化された体験となる。

 

 子供はある体験に触発されて泣き叫ぶと、大人は「イタイ」という音声を教える。すると子供は、理解しないまま「イタイ」と言う。「痛い」という日本語は泣き叫ぶこととは異なり、次第に過去形にしたり、他に適用されたり、質問に用いられたりする。


 そうした言語使用の適切さの評価と訂正により、子供はやがて痛みに関する言語実践に参加する。それと同時に、非言語体験によって「痛い」という発話が触発される。
こうして「イタイ」という発声を触発していた非言語的体験が、いまや「痛み」という公共的に理解可能な体験となる。

 

 これに対して、「E」は公共言語としての機会が無く非言語的体験による触発というレベルにとどまる。それゆえ「E」は分節化された言語にはなりえない。

 

 さらに、非言語的体験が分節化されたならば(つまり非言語的体験でなくなったならば)、触発も因果関係として捉えられるようになる。非言語的であった痛みの感覚は分節化され特定できれば、痛みを反応の原因としてみなすことができるようになるのだ。

 

【非言語的体験と言語的世界】
 以上のことは、「痛み」だけではなく「緑」という語に対しても同様の構図が成り立つと著者は考える。非言語的体験から言語的に分節化された世界が成立してくるのである。

 

 (実は)言語化され分節化されたものは非言語的体験のごく一部であるということや、(非言語体験が)豊かだということ、さらには非言語的体験の場の存在は論証できない。それでも著者は、非言語的体験が存在し、それが言語で分節化された世界よりも豊かなものであることを確信している。

 

<読書メモ
 今回の内容は大きく三つに分けられる。
1、    ある非言語的体験が「痛い」という言語により分節化される過程
2、    ある非言語的体験が「痛い」という発話を触発することにより、触発が因果関係とみなされるようになる過程
3、    実は非言語的体験の存在は論証できないが、それでも著者は非言語的体験の方が言語的世界よりも豊かだと確信していること

 

野矢氏がカントの「物自体」を肯定しつつもその理由を述べないわけは、3によるものなのだろう>


参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷