作文練習

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哲学入門(バートランド・ラッセル著)14章 メモ(10)完了

 ラッセルの哲学入門(参考1)14章「哲学的知識の限界」の、抜粋と読書メモです。14章はこれで完了です。


P183、6行~P185、2行
 哲学は知識を批判するが、その批判は制限されねばならない。完全な懐疑的態度で一切の知識から手を引いた状態から、知識を持った状態まで戻ってみせることは不可能だ。この完全な懐疑論には反論ができない。何故ならすべてを疑う状態からは議論することができないからであり、どんな反論であっても相手と知識を共有することから始まるからだ。


 したがって、成果を得るには完全な懐疑論のような破壊的な批判はあってはならない。だがこうした完全な懐疑論に論理的反論ができなくても、完全な懐疑論が不合理であることを見抜くのは難しくない。


 デカルトの「方法的懐疑」は疑わしく思われることは何でも疑い、自分が本当にそれを知っているかどうかを自らに問いかけていく批判だ。「方法的懐疑」は完全で破壊的な懐疑論ではなく、本書で説明しているような哲学の本質となる批判だ。


 知識の中にはセンスデータのようにその存在を疑う事のできないものもあり、哲学はその種の知識を信じないことを強制はしない。哲学はいかなる反論も受け付けない様に見える信念を拒否することはない。


しかし「物的対象はセンスデータに厳密に類似している」といった信念のように、入念に調べると崩れていくものもある。哲学はその種の知識に対しては、それを支持する議論が現れない限り、拒否する。


 まとめると、哲学が目指す批判は、理由もなく拒否するべきだと決めつけるのではなく、知識に見えるものは一つ一つ考察し、それでもまだ知識に見えるものはとっておくというものだ。


 人間は間違いを犯すので、何事もいくらかの誤謬が残る。しかし哲学は「誤謬の可能性を減らし、無視できるほど小さくする」ことを目指している。それ以上のことはできない。だから哲学を擁護する人なら誰でも、誤謬の無い信念の構築を成し遂げたとは主張できない。

 


<読書メモ>
 以下、ぼんやりとした感想文みたいになってしまった。

 

 一部の誤謬によって全体が破壊されるような、白か黒かという判断によって世界は理解されるべきではない。正誤も真偽も、一定のグラデーションを持って存在する。人がもし間違いを犯すとすれば、白か黒かに分けたい誘惑に駆られた時ではないだろうか。知識を構成するブロックとセメントは何か、各命題の真の蓋然性はどこまでなのかを常に批判しなければ、人は容易く心地良い間違いに身を埋めてしまう。

 

 話は変わるが、小説は偉大だ。異論がある人も多そうだが、おそらく哲学よりも小説の方が人の心を雄弁に語ることができる。ただ、小説は作者が目指すものを簡単には語らない。そこで哲学の出番だ。哲学はそこに書かれたあらゆるものを一つ一つ検証し、思いもよらぬ視点を提供し、作者の何かを炙り出すことがある。

 

 哲学が無ければ小説は、大げさに言うと人生そのものさえ、のっぺりした陰影の無いものに見えてしまうだろう。陰影が見えたからと言ってそれが何になるのかという考え方もあるが、私はたとえそれが毒だとしても、陰影のあるざらざらごつごつした世界の方が好きだ。これは畢竟好みの問題だろう。

 

 


参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2018年、第二十刷
参考2 http://www.gutenberg.org/files/5827/5827-h/5827-h.htm