哲学入門(バートランド・ラッセル著)8章 メモ(8)
このへんからもう頭がドッパーンです。
哲学入門(参考1)の8章、P107の1行目からです。
<要約1>
カント哲学の反対論が一つある。
アプリオリな知識の問題を取り扱う上で「事実はつねに論理と算術に従うはずだ」という確実性は説明されない。なぜなら私たちの本性もまた現実世界の事実であり、それが一定であり続けるという保証はないからである。
カントは2+2=5となるように私たちの本性が変わる可能性については思い至らなかった。
もっともこれは時間についてのカントの見解とは形式上は矛盾する。カントは時間そのものが主観によって現象に押し付けられた形式であり、それゆえ私たちの真の自我は時間の中にはなく、明日も変わらないと考えていた。
だがそうだとしても、カントとしてはやはり、現象の時間順序はその背後にあるものの特性によって決定されると考えなければならないはずであり、だとすれば以上の議論の実質は十分成立する。(参考1 P107、1~14行)
<読書メモ1>
確かに2+2=5となるように我々の直観形式と悟性概念が変わる可能性についてカントは議論していないように思う。時間についてもラッセルの言う通り、自我は時間によって現れる現象の中にはないと読める。これは物体と物自体との関係に対応する。(参考3 P41~44、P100~103)
従って、ここでラッセルの言うことは正しいのだろう。しかし、ラッセルはなぜここまで極端な例を出さねばならなかったのか。私たちの本性が変わるという論法、あるいは世界の本性が変わるという論法でもよいが、前提を変えてしまう論法はラッセルの持説を含むすべての思想体系に反論が可能な論法のように思える。
<要約2>
また、もし算術的信念が正しいとすれば、私たちがそれを考えなくとも、それに物は適用される。たとえ経験されなくとも現象二つと現象二つを合わせると現象四つになるという主張の正しさは2+2=4という算術があろうとなかろうと正しいのである。
従って、カントは算術のアプリオリな確実性の説明に失敗しているし、(算術により)現象の成立する範囲を不当に制限しているのである。
<読書メモ2>
算術すなわちアプリオリな綜合的判断があろうとなかろうと、現実は現実として既に存在している。これは理解できる。
しかし、「算術のアプリオリな確実性の説明に失敗している」がどういうことなのかは私には良く分からなかった。
参考1 哲学入門 バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、第二十刷