作文練習

何か書くと楽しい、かもしれない。

「語りえぬものを語る」 読書メモ(第11章、その1)


 本書(参考1)ウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解の範囲で文章を変えている。本記事は11章に関する。


 以下、本文抜粋。

 

P182
 前章までの議論は思考可能な範囲を目一杯使ってきた。しかし我々は論理的可能性の一部分しか思考可能ではない。


 例えばグルーのように、グッドマンが提唱しなければ思いつきもしなかった可能性さえ論理空間には含まれている。隕石が落ちてくる可能性や一万円札が財布の中でひとりでに二枚に増える可能性は、論理的可能性には違いないが、我々の行動はそれを前提にして成り立つことはない。


 私の行動に影響を与える可能性を(私にとっての)「生きた可能性」と呼び、私に影響を与えない可能性を(私にとっての)「死んだ可能性」と呼ぶ。また、生きた可能性によって作られる部分空間を「行為空間」と呼び、それらの在り方を調べていくことにする。


 グルーと隕石と一万円札の例は「死んだ可能性」として捉えられるが、これらはタイプが異なる。どう異なるのか、まずグルーを例に概念の問題から考えていこう。


 グルーという概念は論理空間に含まれるが、その概念を使用することができない。すなわち概念をもたない、概念を所有していないと言える。


 例えば花子と太郎がいたとして、彼等はインブリードという言葉を知らないとする。しかし花子はインブリードの説明を聞いて理解でき、一方で太郎は理解できない。その場合と花子の論理空間にインブリードは含まれるが、太郎の論理空間には含まれない。


 ただし、花子はインブリードという言葉を適切に使うことができないので、その概念は花子の論理空間に含まれるが、花子はその概念を所有していないと言える。

 

 通常、人が考えているのは論理空間の一部であり思いつきもしなかった概念も含まれる。つまり、隕石や増えるお札やグルーといった概念の新しさは論理空間を広げるものではない。それは行為空間にとっての新しさでしかない。この新しさは、新たな概念”所有“の緒端を与えるのだ。

 

P186
 次に「死んだ可能性」の二つのタイプを考えてみる。一つは隕石の落下や埋蔵金が庭に埋まっている可能性である。我々はこの可能性があるとしながらもそれに従って生活を変化させたりはしない。これは、我々の日常が習慣によって「囲い込まれている(entrenched)」からであり、我々の生活は囲い込みから排除された可能性を無視することで成り立っている。


P188
 もう一つはお札が財布の中でひとりでに増える可能性である。これは習慣による囲い込みではないし、かといって論理的なあり得なさでもない。どこかに「お札保存の法則」という真理があり、それに反することはあり得ないと考えているのだ。ここには「探求の真理」というべきものが働いている。お札がひとりでに増えるという疑いはア・プリオリに排除しているのだ。


 自然科学はこうした探求の論理を持つ。これを「世界像」と呼ぶ。我々はお札保存の法則を疑うことはできない。


 論理空間は論理的可能性の総体であるが、そのすべてが私の行為に関わるわけではない。第一に、論理空間に存在する概念の多くを私は所有していない。第二に、習慣による囲い込みからはみ出た可能性を私は無視する。第三に、我々の世界像に反する可能性は抹消される。論理空間の中でこれらの可能性を排除したものが行為空間である。


 論理空間の中で私は私の行為空間に自分を囲い込んでいる。むしろ行為空間に生きていることを起点に延長されたものが論理空間なのだ。

 

<私的メモ: 荒唐無稽な話やSFの世界は、それがいくら斬新であっても理解できる以上は我々の論理空間の中にある。
 論理空間が行為空間の延長であり、世界像が所謂常識として行為空間を規定しているということから考えると、形而上は論理空間上の行為空間の境界線上およびその外側に含まれると解釈して良さそうだ。>

 

参考1 語りえぬものを語る 野矢茂樹著 講談社学術文庫 2020年、第1刷